Monologue〜フィジコISHIIの熱苦しい独り言〜

フィジカルパフォーマンストレーナーのイシイです。仕事のこと思ってること熱苦しく呟きます。

自由。

"尽きせぬ自由は

がんじがらめの不自由さの中にある"

これだけで誰の歌かわかった貴方は仲良くなれるかもしれません(笑)

最近、いやずっと自分の心の中には『自由には責任がついてまわる』という言葉がありました。18年間、好きなことを仕事にしてそれなりに自由に暮らしてきたと思ってます。それでも自由に好きなことをするっていうのはそれなりに責任がついてまわり、好きだからこその苦労ももちろんある。その覚悟がないならするべきではない、という意味でずっと自分の中に君臨し続けた言葉でした。

人間、圧迫されて押しつけられて選択肢のない中にいると当然自由が恋しくなる。恋しくなるばかりか現状に不満が募りストレスを感じる。悪循環で良いことなんてないように思える。

ところがそれだけ恋しかった自由を手に入れると人は途端に堕落するか強欲になる。良い意味で欲張られれば良いけれど、大抵の場合、自分に都合のいいように自由を求め始める傾向があるように思える。

水も温度も電気も、高い方から低い方へ流れるように人間、楽な方や緩い方へはすぐに流されてしまう。そこで己を律することはなかなか難しいことなのかもしれないけど、、そうやって得た自由は尊いものではなくなる気がします。

今の世の中、ググっちゃうといろいろ教えてくれるわけです。自由と責任について調べてみたら面白かった。根本的に自由には責任がついてまわる、というよりも責任が取れれば何をしてもいいのか、という考え方を見てなるほど、と思わされた。捕まる覚悟があるなら犯罪を犯すことは自由か、それは違う。となると覚悟と責任だけの問題ではなくなってくる、と。

自由とともに権利や、ルール、責任とそれぞれが単独で存在することはなく、共存している。

そう考えてみると、狭義の自由はあれど本質的には不自由な中で人生を楽しんでいる、ということになるのでは?と。そもそも責任が伴う自由=他者が決めた範囲であれば自由。というなら、ある意味では誰かの自由は誰かの不自由である、ということでは?完全なる自由、とは三次元では起こり得ないことなのかな、とか思考回路がショートしかけてきた。

完全なる自由なんてない。誰かの決めた範囲の中でどれだけの自由を勝ち得るかは個人の心掛け一つなのかもしれない。

尽きせぬ自由は、がんじがらめの不自由さの中にある。