Monologue〜フィジコISHIIの熱苦しい独り言〜

フィジカルパフォーマンストレーナーのイシイです。仕事のこと思ってること熱苦しく呟きます。

"頑張る"ってこと。

 

"頑張る"って、誰でも何かしら一度はしたことあると思う。その程度はどうであれ、一度も頑張ったことがない人っているんだろうか。よく、努力を努力と思わない、的なコメントは耳にするけど…それなら表現を変えて、"何かに一生懸命に取り組む(=夢中になる?)"としてもいい。頑張る、努力する、夢中になる。程度の差こそあれ、誰でも生きてきて物心ついてから一度はあると思う。

 

小学校の卒業式で、当時の担任の先生からクラス全員が直筆の手紙をもらった。便箋2〜3枚にびっしり綴られた先生からの言葉。もちろん、他のコの手紙なんて見せてもらわないからどんなことが書いてあったかなんて知る由もない。大事にとっておいたのは間違いないけど、今どこにあるかわからない。それでも強烈に覚えていて、忘れられない言葉がある。以前も書いたかもしれないけれど、折に触れてよく頭を過ぎる。その言葉とは。

 

『ユウコはよく気が付くし、行動してくれる。ただ気をつけて欲しいのは、その頑張った評価を他人に求めないってことだ』

 

小学6年生のワタシがその言葉を正確に理解したかはわからないけれど。学級委員長もやっていたし、確かに『先生、○○やっておく?』『先生、○○しといたよ!』なんてことは日常茶飯だったけど、別に褒めてもらおうとかそんな下心はなかったと思う(多分w)。先生は、そういうのはおべっかを使ってる(←これ北海道の方言なんですって!)と思われかねないから気をつけるんだよ、的なことが書かれていた。また2年生の頃の話しで、私はだいぶ後になってから知ることになるんだけど、当時大好きだった担任の先生から実は嫌われていたという。その理由はわからない。母親が担任の先生からワタシみたいな子供は嫌いだ、と言われた(←それもそれですごいと思うw)と聞かされたこともあった。

 

***

 

閑話休題

昔話はどうでもいい。本題は、"頑張る"ということ。6年生の時の担任の先生に言われたことがずっと引っかかっていたから、なのかどうかはわからないけれど、いつしかワタシの中では

 

頑張ることは当たり前。

頑張ったかどうかを評価するのは自分ではない。それは他人が評価すること。

 

が常識だった。

もちろん、自分で自分のことを褒めたり認めたっていい。でもそれは表に出すべきではない。でももしも。ワタシの頑張ってること、必死になってること、夢中になっていることを伝えることで誰かが"自分も頑張ろう"って思ってくれたり、頑張って!と応援されたら、それはそれでとても力になるし、素敵なことだとも思うわけで。。

 

だから、必要以上に他人に評価を求めるな(ひけらかすな)、ということなのかな…なんて。

捻くれてるわけではなく。難しいなぁ…と。

 

 

でも、最近思うのは

"自分にできることは他の誰にでも出来ること"。

冒頭にも書いたように、頑張ったことがない人って、殆どいないと思うわけ。程度の差こそあれ。

だって毎日は"選択"と"挑戦"の繰り返しの積み重ねでつくられてく。しいてはそれが人生というものになるのかな、なんて。

どんなに考えても必死になっても、"やっておけば良かった"と悔やむことは一度や二度あるはず。悔やむことがダメなんじゃない。繰り返さなきゃいいのだ。だって人は完璧じゃないから。

 

自分のために頑張るのは、当然。

でも頑張ることが目標になってはいけないよね。

それじゃ意味がない。ただ"頑張ってる自分"に酔いしれてるだけでいつまでたっても何も変わらないし叶わない。

ほんのささやかなことでも、ちょっと努力がいることでも、めちゃくちゃ頑張らなきゃいけないことでもいい。

 

でも人生で一度くらいは腹の底からガッツポーズが出るくらい頑張ってみたっていいと思う。

とめどなく涙が溢れるくらいの達成感を味わってみたっていいと思う。

それが他人からしたら"なんだそんなこと"でもいい。ほんのささやかなことでも、ちょっと努力がいることでも、めちゃくちゃ頑張らなきゃいけないことでも、自分が感じられたらそれでいい。

そして誰かのそんな姿を、全力で応援したい。その刺激は確実に自分のPowerになる。

 

多分、その想いが強いからこの仕事してるんだと思う。誰かの全力を全力で応援してそれが叶う瞬間の目撃者になりたい。決して、感謝されたいわけじゃない。もちろんありがとうと言われることは途轍もなく嬉しいしPowerになる。でも言われたいだけで応援したり支えたりしてるんじゃない。全てを懸けて何かを成し遂げようとするその姿に、自分が奮い立たされるんだ。自分も頑張ろうって。

 

だからこそ、自分の選択と挑戦にも妥協しないように生きたいと思う。

 

そして、あ、イシイが頑張ってる!アタシ(俺)も頑張っかな、なんて相乗効果が自分の知らないところで起きてたら何で幸せなんだろうって。

 

だからこそSNSは誹謗中傷や愚痴めいたことを晒す場ではなく、そんな場であって欲しいと思うのです。見ず知らずの人の頑張る姿にも、誰もが知ってる著名人の頑張る姿にも、誰かの心には響く。その時必要な誰かに、きっと。

 

結局、何が言いたいかって言うと(笑)

人生で一度くらいは腹の底からガッツポーズが出るくらい頑張ってみたい。とめどなく涙が溢れるくらいの達成感を味わってみたい。

一度と言わず、何度でも。

それが出来る人生ってめちゃくちゃ濃くてシアワセだなって思いませんか?

 

 

信じることと、期待すること。

 

まだまだ連日TVで大きく取り上げられるバスケ男子日本代表の48年振りに自力で掴んだ五輪出場。

 

いやー…めっちゃ感動した。

選手それぞれにドラマがあって、しかも毎試合ヒーローが違う。そして諦めずに向かっていく姿。素晴らしかった。

 

f:id:physical141yuko:20230905182852j:image

sanspo.comより(一応引用元掲載)

 

 

で、渡邊選手の言葉がすごく響いた。

『"信じる"っていう、"Trust"、"Believe"っていうのを、(HCが)ずっと僕たちに対して言ってくれていた』、的なコメント。

 

そして、それに対してトムさんが

『"信じている"という言葉は深い』と言った。

 

そう、"信じる"って、深い。

と同時にそうかTrustもBelieveもあるのか、と気付いた。何となく予想はついたけど、ググる

どちらも『信じる』という意味だけど、

"Trust"は、相手自身(人格自体)を信頼する、任せられるという意味で、

"Believe"は、人が言う言葉、内容、物事を信じるという意味。

 

そして、トムさんのいう"深い"の意味。

信じるって、一朝一夕で出来るもんじゃなくて、毎日の地道な積み重ねの上に溢(こぼ)れる言葉だと思うのです。短くてもいい、一目でもいい、一言でもいい。同じ空間、経験を共にすること。

HCであるトムさんは今回のチームで合宿1日目から、しつこく、しつこく、『自分たちを信じることが必要だ。それが君たちにはまだ、できていないことだ』と言っていたとか。

『自分を信じて』と言い続け"BELIEVE"という言葉を合言葉のように使い続けたHCの信念。

その言葉の深さは、考えられない程の努力と真摯に向き合い続けてきたからこその証だと思う。

 

 

言葉の力

情熱の力

諦めない力

信じる力

 

全て、一朝一夕では築き上げることのできないもの。

世界大会で勝った経験がないにもかかわらず、選手たちが自分たちの可能性を信じていた。信じさせてくれた。そういうチームを作り上げるって生半可な覚悟じゃない。改めてすごいなと。

 

 

でも、すごいなと思った裏でじゃあ"信じる"と"期待する"ってどう違うんだろう、って。

 

いやいやいやいや、全然違うっしょ!って思う人もいるかもしれない。けど、純粋に気になった。

 

信じる、とは。

本当だと思う、信用する、信仰する。

(日本語って…難しいね)

 

期待する、とは。

ある事柄が実現するだろうと望みをかけて待つ。

 

…。

 

今回で例えるならば、日本代表がアジア1位になってパリ五輪出場を自力で決めて欲しいと思っていて、今日の試合は勝ってくれるだろうと望みをかけて会場に足を運ぶ。TVの前で齧り付いて応援する。まさに『勝つことを期待する』←信じる、ではない。ここでもし『勝利を信じてる!!』と一ファンが言ったとして。それは『信じてる(=期待してる)』ってことよね…って。そんな違いなんて指摘する人もいなければ気にする人もいないだろうよ(^◇^;)

 

 

そういえば以前書いたような気もするけれど、芦田愛菜ちゃんも映画の完成披露イベントで信じると言うことについて話していたのを思い出す。

 

誰かのことを信じるって、

『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と。

 

だからこそ人は

『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言う。でもそれは別に『その人が裏切った』わけではなく、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って。

 

愛菜ちゃんすごいなー。

(↑論点がすり替わってるw)

 

今回で言うならもしも日本代表が負けてしまったとしても、選手やスタッフ陣は『負けに不思議の負けなし』という言葉があるように、相手の方が上だったのだと悔しさを滲ませながら、涙をこぼしながら、相手を称賛するに違いない。でもそこが"期待"していた人たちにとっては○○が悪かった、とか△△が良くなかった、⬜︎⬜︎だったらなー!!などと言い始め、何かと理由をつけたがるのではないだろうか。

 

揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しい。

だからこそ、"信じる"ことも一朝一夕では築くことが出来ないんだと思う。

 

 

ワタシは、信じたい。

自分の関わる選手、スタッフ、チーム全て。

選手やスタッフから信じて欲しいとかではなく、自分が、信じたい。

自分の行動の原動力はそこだな、と今回思った。

だから相手の言動に一喜一憂してるようではダメなのだ(笑)

 

 

信じるって、深いなーーーぁっ!

 

 

心から。

 

母国開催(正式には日本、フィリピン、インドネシアの共同開催)バスケットボールのW杯が熱い。

ランキングでは格上のフィンランドを後半最大で18点ビハインドからの逆転勝利を飾った試合の興奮と言ったら!!

 

第3戦のオーストラリア戦も、なかなか面白かった。優勝候補の一角とも言われる相手に前半こそいいところが出なかったものの、後半10点差まで詰めた瞬間とか、ものすごくわくわくした。

 

 

話題にもなってる某選手の、アレ。

(B.LEAGUE.公式 Twitter(X)より拝借)

 

f:id:physical141yuko:20230830184320j:image

 

 

SNS上でもこの所作に注目が集まっていた。

この写真を拝借したB.LEAGUE公式Xにもその所作について尋ねられた時のインタビュー動画とともにその理由が記されていた。

 

コートに立ちたくても立てない選手がいること、今自分がコートに立っているのは当たり前ではないんだということ。それをコートに入る前に再認識するために一礼して、全力で戦うと誓って入っているという。

 

若干22歳の青年である。

育ってきた環境、いや彼を育てて来た指導者の方々が素晴らしい方々だったんだろうなと思わずにいられない。

上っ面だけではなく、本当に心から感じて思っていなければ続けられない所作だと思う。顔を上げた彼の目の力強さがそれを物語っている。ただのルーティンとかそんなものではない。

 

 

日本には、素敵な言葉がある。

『礼に始まり礼に終わる』。

作法を守り、また相手への敬意を示すことが何よりも重んじられるべきである、という武道の精神。礼儀・礼節、感謝をもって試合に臨むことは、ある意味勝敗よりも…重要である、という日本の心。

 

 

すっかりアップするのを忘れてて、今リアルタイムで順位決定を見ながらそんなことを思った。

日本人としての誇り。頑張れ、NIPPON🙌

祭りのあと。

 

正式にこんなにしっかり携わったのは初めてだったんだなと終わってから気がついた。

過去2回、スポット的に関わらせてもらったことはあったけれど、その時の選手がスタッフになってたり若手だった選手がキャプテンになっていて、驚くほどチームが若返っていた。

 

 

若いって、もうそれだけで荒削りで根拠なんかなくても勢いとかがむしゃらさとかでミラクルを起こしてくれるような可能性がたくさん感じられて見ているだけでわくわくするような、ヤンチャなエネルギーがいい。

途中から合流して年齢も一回り以上離れたオバちゃんは、なかなかブッ込めずに(笑)距離が詰められず、柄にもなくモタモタしたなと悔やまれる。

 

 

国体チームって、強豪チームがあってそこ一強での単独チーム。もしくはその強豪が母体になって普段は違うチームの上手い奴らが選ばれて、県内最強チームが出来上がる。そんなイメージだった。9年前に本国体への切符を掴み取った時は後者で、"どこからどう見てもスゴい奴ら"の寄せ集めだったんだなと今更ながらに思う。

 

 

今回はものすごく"チーム"というもの、代表チームというものについて考えさせられた。

当然、選ばれし寄せ集めチームはみんなレベルが高い。だけど寄せ集めはどんなに素晴らしくても"個"の集まりなので、代表チームというものについての考えや想い、勝利への執着心や温度差といった『そもそもそれぞれが持っているであろうもの』をどれだけ認め合い高めあいながら戦える集団になっていかなければ素晴らしい個であっても素晴らしいチームにはなり得ない。それをわずか2ヶ月という短期間で問われる。

 

実際、顔を合わせる回数を重ねるごとにチームとしての厚みというかカタチが見えてきてワクワクした。この選手たちはどんな化学反応を起こすんだろうって。

 

今大会、完全な選ばれし寄せ集めの選抜チームはうちだけだった。他は母体チームがあって、そこに補強がちょこちょこ。そうなると圧倒的にチームとしての成熟度はうちが不利なようにも思えた。けど、どっちでもいい。大会である以上、県の代表として戦う以上、プロでなくともこの大会だけは勝つことを求められる。でもだからといって『強けりゃいい、勝てればいい』というのはちょっと違うのではないかと。もちろん強いこと、勝てることは魅力の一つになる。だが県の代表、しかも成年チームとなるとこれだけではいかんと思うのです(古臭い?)

寄せ集めチームの場合は各々の会社や職場に選手派遣依頼文書を提出し、休みをもらって来てる選手が大半。それって、当たり前じゃない。もちろん、本人がここまで真剣に競技に向き合ってきた結果であって本人の努力あってこそ。でも自分一人ではなく誰かに支えられてここまで来れたということを忘れてはいけないと思うのです。それが、感謝の気持ち。

 

寄せ集めの選抜チームは言ってみれば期間限定のパリサンジェルマンや、レアル・マドリードみたいなもの。ただそれが金銭面や待遇面ではなく『県の代表』として選ばれたっていう誇りとPRIDEを胸に集まって、プレーはもちろん人間的にも子供たちが憧れて、近しい人たちは『うちの職場の若い奴でさ!』みたいに自慢したくなる選手がいて、ただその場に居合わせた観客の人たちが応援したくなるチームが県の成年チームだなんてものすごく素敵だと思うのだ。単独の最強チームももちろんカッコいいけど、寄せ集めには寄せ集めのカッコ良さがあっていい。

 

今回、旧知のスタッフ陣と3週間という短い期間だったけど共に過ごして、そんなチームをつくるお手伝いがこの先も出来たら最高に幸せだなと思った。

 

 

初戦でとてつもなくいい試合をして、わくわくした。2戦目をしっかり勝って2日目に繋げて、心は本国体に行ってた(笑)浮き足立ってた…わけではないと思うけれど、本当に本当にちょっとしたことで勝利の女神の心を掴めなかったのかもしれない。どんなに離されても信じてた。4ピリでようやく追いついたときも勝利しか信じてなかった。それだけに、喪失感は大きかった。

選手たちはそれ以上に悔しかった、と思う。

どれだけの選手がどれだけ悔しいと感じたか。
悔しいって気持ちは、ナマモノと一緒だと思うのだ。その刹那に感じた『悔しい』って気持ちをどれだけ鮮度良く刻みこんで忘れずに努力出来るか。悔しさの鮮度って、意外にすぐに落ちると思うのです。賞味期限数分の、どっかのシュークリームみたいに(笑)

悲しいことに忘れてくのです、悔しさを。

そしてまた似たような悔しさに再会したりする。その時に後悔しても遅いし、悔しいって思わなくなったらそれこそ終わりなのよ。

 

でも残念なことに嬉しかったことってずーーーっと浸れたりするんです。いつまでも過去の栄光を手放せずにだんだん美化されてったりして。

いつも言うんだけど…キンキンの生ビールがいちばん美味い。ぬるくなって泡も消えたビールを美味い美味いって呑める?キンキンの方が美味かったなぁ〜なんて思いながらぬっるいビール呑んでたって美味しくないじゃない。

 

いつだってキンキンに冷えた生ビールが呑みたーーーい!って思ってる人が、最後に勝つ人。ワタシはそう思う。そんでもってそういう人のために惜しみなく尽力したいと思うのです。

 

 

もっともっと、"チーム"になっていく姿を見たかったし、もっともっと、みんなの測り知れないノビシロを近くで見たかった。

 


大人の青春は、学生時代とは違って自分で幕引きが出来るようにみえて、意図せずある日突然訪れたりもする。自分の力ではどうにもならないことでやれなくなることだってある。

いつまでも思い描いたように競技が続けられるわけじゃない。


だからこそ。
"やっておけばよかった"じゃなくて

"やっておいてよかった!"って

 

最高の瞬間を何度も上書き出来るように

"今砌の今を精一杯に"

感謝や仲間へのリスペクトを忘れずに、もっともっと貪欲になってほしい。選ばれたみんなだから。


みんなの活躍がいろんなところから聞こえてくるのを、観られることを心の底から楽しみにしてるから。

 

残念ながら終わってしまったけど、きっともっともっとパワフルになったみんなにまた会えると信じて。夢見せてくれてありがとう。

 

 

f:id:physical141yuko:20230823180910j:image

向いてるとか、。

やりたかったこと。好きなこと。

自分で選んだはずなのに『向いてないのかな…』と感じる瞬間は誰しも一度は感じたことがあるはず。好きなことを極めようと志したことがある人なら尚更この『向いてないんじゃないか』の壁にぶち当たったことがあるはずだ。

 

かく言うワタシも21,2歳の頃にこの壁にぶち当たった。21,2!!若造もいいところ!!ひよっこもいいところ!!笑

 

でもその時のワタシ、本気で悩んでました。

トレーナーに向いてないのかなって。

でも、どうしてそう思ったのか詳細は忘却の彼方…覚えてません笑

 

専門学校卒業して、何の後ろ盾も下積みもなく、学生の頃のわずかな実習経験とやる気だけを抱えてフリーランスとしてスタートさせたトレーナー人生。そりゃ、壁にもぶつかるって(←でも多分大した壁じゃない 笑)

 

その頃、実習の時にお世話になった社会人チームの方とお話しする機会があって、ぽろっとこぼしたんでしょうね。その方、国体も日本一になったことあるけどバックアップメンバーでユニフォーム着れなかった。でもチームのために練習はもちろん裏方の仕事や応援も全力でしてた。

 

 

俺も、向いてないのかなーって思ったことあるよ

って。

 

向いてないから辞めた方がいいって言われたら

辞められる?(笑)その程度?(笑)

 

向いてるか、向いてないかより

好きかどうかだと思うよ。

 

 

そう言われました。

うん、確かにって若造イシイもその時思った。

 

 

『向いてないのかな』って

いや、本人はその時は本気でそう感じて悩んでるんだけど、『向いてない』って言われて諦められる人、どれくらいいるんだろうって。

 

いや、すんごい権威のある人とか尊敬してる人とか、そう言う人から『向いてない』って烙印押されたとしたら、結構堪えると思うけど…誰かに言われる『向いてない』っていう言葉はどこか呪縛的だけど、自分で『向いてない』って思うのはちょっと逃げ道というか、本能的な言い訳なのかな、なんて思うのです。決してそう思う人が弱いとかそういうことではなく、ワタシ自身もたびたび思ったことあるし。

 

向いてないから、辞めた。

それはきっとどこかでずっと誰かの、何かの、せいにして言い訳し続ける気がする。

 

向いていようが、向いていまいが、好きか嫌いかは変わらないはず。

運動神経が悪いからスポーツは向いてないと思うけど観るのは好き、とか。

スポーツそのものは好きだけど、playすることには向いてないからplayするのは嫌、みたいな。

この場合、スポーツそのものは好きなわけだ。

だったら向いてる向いてない問題も、その矛先が向いたものを『自分が好きかどうか』が大きな焦点になるのでは。

 

好きなことを選んでもうまくいかないこともある。むしろ好きだからこそ手を抜けなかったり極めようとしてしんどかったり苦しかったりすることが多々あるはず。だって、そこまで好きじゃなければ適当に済ませればいいだけの話だから。

 

 

ワタシの友人には、"好きだからこそ好きなことは仕事にするもんじゃない"と明言したコがいる。それはそれで正しいと思う。

好きだからこそ、仕事にするのもあり。

好きだからこそ、仕事にしないのもあり。

要は"どんな風に"好きでいたいのか、だと思う。

先にも述べたように好きだからこそしんどかったり苦しかったりすることは多々ある。そのしんどさや苦しさに押し潰されて、本来好きなものが嫌いになってしまうのは本末転倒だと思うわけで。

 

 

だから、SNSで『向いてないのかな…』とぼやいた彼にダイレクトメールを送らずにはいられなかった。せっかく好きになって夢中になったものを嫌いになって欲しくなかったから。

(もっと近くにいる)誰かにそんなことないよって言って欲しかったかもしれない。

心配するほど、悩んでないかもしれない。

 

それでもおせっかいなワタシはいてもたってもいられなくなって、彼にかなり久々にダイレクトメールを送った。今の彼と同じ歳の頃のワタシも、同じような想いを抱えていたから。

 

 

向いてないかな、と思ったら。

まずはそれが好きかどうか自分と向き合う。

そしてどんなふうに好きか、どれくらい好きか、まで掘り下げる。ドMなくらい好きなら(笑)向いてるとか向いてないとかじゃなく、しがみついてでも齧り付いてでも気が済むまで辞めなきゃいい。それほどの熱量よりも疲労感や不満、嫌悪感がボロボロ溢れるようなら、嫌いにならないうちに距離をおいた方がいい。つまり、仕事としてではなく趣味程度に収まる範囲で愛でるのがいい。

 

 

『この仕事は、このブランドは 間違いなく好きですね………』頑張ります、と彼。

 

 

向いてるとか、向いてないとかじゃなくて。

好きかどうか。

どのくらい、どんなふうに好きなのか。

 

どうか彼が好きなものをずっと、ちゃんと、好きでいられますように。

 

夏至の日に思う。

 

昨日は夏至

一年でいちばん昼が長い日。

ということは季節は夏に向かうのに、刻一刻と昼は徐々に短くなり冬へ向かう。何かパラドックス的な…感情を覚えるのはワタシだけ?(笑)

夏至にも春分の同様に面白い話があって、スフィンクスから見ると、夏至の日に昇る太陽が2つのピラミッドの間から現れる(そうなるように古代エジプト人は計算してピラミッドを建設したそうな)とか、イギリスにあるストーンヘンジは、夏至の日になると入り口に配置されたヒール・ストーンから太陽が昇るとか。日本にもある。伊勢神宮宇治橋前大鳥居の中央から月が上り、二見興玉神社夫婦岩の中央から太陽が上る。こう言うのってたまらなく好き。古代のロマンをひしひし感じる。

 

 

見えないものを見ようとするよりも、まずは見えるものをいろんな角度から見る。

聞こえないものに耳を澄ますよりも、聞こえるものにしっかり耳を傾ける。

言わないことはある意味楽だけど、些細な一言さえ伝えられないのは苦しい。

 

f:id:physical141yuko:20230622085327j:image

(↑画像お借りします)

 

視覚、聴覚、加えて話すこと。

どれが欠けても不便だなと思う。足の小指を強打してむちゃくちゃ痛い、あの感覚。

そしてどれも出来ていたのに出来なくなると途端に不便だしに感じる。初めから出来なければ何とかそれを補おうと工夫するのに。何でそんなこと思ったかって言うと、実はここ3日ほど、音が出なくて困ってるのです(笑)ん?音って?(笑)

声です、声。いやー、頗る不便。コンビニで買い物してレジでありがとうの一言すら出せない。原因?わからんのです(笑)キャパオーバーしたのか、ストレスなのか疲労なのか。どうでもいいけどそろそろ治ってくれないと仕事にならない。

 

 

"自由とは雁字搦めの不自由さの中にある"

これは、敬愛する剛のとある歌の歌詞。

まさにその通りだな、と。

何もかも許され制限がなく、欲しいもの全て、思い通りになる世の中であれば欲もアイディアも生まれないどころか枯渇する。ないもの、出来ないことがあるからこそ欲もアイディアも生まれる、とワタシは思う。ストレスも、少しはないと人間成長しないと思うのだ。

 

相手を慮り、相手のやる気スイッチを押す、もしくは背中をそっと押す。そんな魔法使いならぬ"言葉使い"になりたいと常々思う。そのためには人間力を磨き続けること。魅力ある人間になること。


【 魅力 】とは。

一般的な定義は"人の心をひきつけて夢中にさせる力"とある。


装飾品は見た目(外見)の魅力。
それも勿論必要だけど、それだけでは…ボロが出るよね。憧れて良いなと思ったのに、いざ近付いてみたら何だこんなもんかと幻滅するような、蜃気楼じゃダメなわけ。言葉も空耳のようにふわっと流れて消えていく。
"なーんだ…"っていう、その失望感は信頼を失うのと同じことだと思う。取り戻すのは決して容易ではない。

 

結果、何が言いたいかって言うと。

見えることとか聞こえることとか、話せることとか、呼吸することとか。当たり前に出来ることをもっと大切にしっかり使えるようにしたいなぁと思ったってことです。

 

そろそろ、声出てくれないかなぁ(笑)

ときどき、ドライ。

 

この仕事をここまで続けてこれたのは、間違いなく人の"ご縁"に恵まれたからだと思う。

専門学校でたまたま出逢ったチーム。もともとその競技が好きだったと言うこともあってそのチームにどっぷりはまって個人的に試合や練習を観に行くようになって。よく言えばチャンスをモノにしたと言っていいかもしれないけれど、チャンスをうまく、利用したというのが正しいかもしれない。そこの監督Oさんは私のことを可愛がってくださり、専門卒業したらどこでもいいからトレーナーとしてチームに就かせてくれるところを探していたワタシに『紹介してあげる』と声をかけてくださった。自分としては諸々悩み、恩師にも相談して、Oさんの厚意に甘えることにした。そうしてワタシは念願のトレーナー人生をスタートさせることになる。このOさんとの出逢っていなければ、声をかけて頂けてなかったら。神奈川の某実業団チームに行っていたと思う。それはタラレバなのでどうなっていたかなんてわからないし、そっちを選んでいたら今頃…なんてことも微塵も思ったことはない。Oさんには感謝しかない。

とは言え、Oさんとは今は連絡を取ることはない。多分、いや、本気で取ろうと思えば取れると思う。何かの時に一度連絡を取った。けど、それ以降取ったことはない。Oさんの息子さんとも予想だにしないところで出逢って、あぁ、やっぱりOさんはご縁のある方だったんだな、とその時思った。だから、必要以上に連絡を取ろうとしなくてもOさんとのご縁は切れる気がしない。

 

 

ワタシにとってのOさんのように何となく切れずにずっと繋がってるご縁もあれば、何とか繋ぎ止めよう、結びつけよう、と自ら動いて手繰り寄せるご縁もある(こういった縁は縁と呼べない気もするが)。よっぽどでない限り、ご縁は自ら切ることはしない。切られたことは…何度か、ある、な😅

 

 

優劣をつけるわけではないけれど、それでも直感的に"これは疎遠(縁)になるな"と思う瞬間がある。

アメリカのトラフィモウという人のの研究によると人間は『してあげたこと』は『してもらったこと』の35倍覚えているそうだ。なんていやらしい…(笑) つまり『他人にしてあげたこと』と思い込んでいることは都合よく覚えていて、『俺(私)のお陰』と。けれどお世話になった『誰かにしてもらったこと』は身勝手に忘れるわけだ。『あの人のお陰』なのに。

 

 

途切れていく"縁"は、ワタシがその人に対しての恩を忘れた結果なのだろうか。
『してあげている』の多くは『してもらっている』事実のはずなんだけどな。

まぁ、それも含めてご縁なんだろうな、と思うことにしてる。縋ってもいいことないから(笑)

 

そんなところは、ドライなのかも(笑)