Monologue〜フィジコISHIIの熱苦しい独り言〜

フィジカルパフォーマンストレーナーのイシイです。仕事のこと思ってること熱苦しく呟きます。

コーチとは。

数年前、母校の専門学校で講師をしていた頃。

私は"コーチング理論"という授業を担当させて頂いていた。まだ30代を過ぎたばかりの頃で、学校にはまだ恩師もいたので"私なんぞが"と心のどこかに在りつつも与えられた職務である以上はしっかり全うしようと必死だった。

 

 

コーチング理論』という授業は自分が学生の頃にはなかった。

そもそも、"コーチ"という言葉にどんなイメージを抱くだろうか。

コーチの語源は、ハンガリーの町の名「Kocs」に由来する。その町で四輪馬車が最初に造られたことから町の名にちなんで【kocsi】と呼ばれ→英語が入って【coach】になった。馬車を意味する"コーチ"が学業やスポーツの指導者を意味するようになり、日本では明治時代から、主にスポーツの指導者の意味で"コーチ"という言葉が広まった。
現代では、乗り物に馬車を使うことが減ったことから、欧米では鉄道の普通客車やバスなど、馬車に替わる乗り物を"コーチ"と呼んでいるそう。もちろん、そんなことも最初の授業の冒頭で触れた。これは雑学だがかの有名なバッグのブランド【COACH】の名前の由来も諸説あるようだが"大切な物を送り届ける"という意味で馬車を語源とする説が定説となっているとかいないとか。

 

 

閑話休題

現在でも、欧米では、鉄道の普通客車やバス、列車の客車などを"コーチ"と呼んでいる。ということは、客は自らの行き先(目的)に応じた"コーチ"を選んで乗車し、"コーチ"は目的地に向かって客を運ぶ。となると決してコーチが行き先(目的)を勝手に変更したり、決めたりすることはないということになる。

 

つまり、コーチとは。

『目的を持った客を、目的地まで確実に運ぶ役割を持った人』のこと、と言える。

コーチには立場や年齢は関係ない。

とは言え、対象者には選ぶ権利があるわけだから、立場や年齢、経歴なんかは必ずと言っていいほど品定めされる項目になる。

某有名選手も『コーチが自分より経験のない(実績のない)人なら最初はナメてかかる』みたいなことを言ってたような…∑ヾ(;゚□゚)ノギャアアーー!!

コーチの方が選手よりも実績がない。これは結構あるあるかなぁと。異性であることも、俗にいう"ナメられる"原因の一つかなとは思う(経験済み)。対象者には"コーチ"を選ぶ権利はあるので仕方ないことなのかもしれない。目的地まで確実に連れてってくれる人であれば、誰であっても、他者にとっては"コーチ"になりうるはずなんだけれど…。

 

 

名選手名コーチに非ず、とは言ったもので。

対象者からすれば名声や経歴は信頼に値するものだろう。でもそれだけじゃないと思うのだ。

かくいう自分も、名選手だったわけでも実績もないからそう思いたいだけなのかもしれないけれど…コーチングとは"生き方"そのものだと思う。コーチングには必ずその人の人間性が色濃く滲み出る。

 

これさえやっておけば、

ワタシの言うことを聞いていれば。

そんなことを言うつもりは微塵もないし、そんな魔法のようなものは存在しない。

対象者がどうしたいのか、どうなりたいのか。

コーチングはティーチングとは違い互いの"対話"を中心に働きかけ、相手の自己実現や目標達成の支援を図る。相手の話をよく聴き、感じたことを伝え受けとめ、(自分の考えを押し付けることなく)質問をし、自発的な行動を促すことがコーチングの目的である。教わってるようでいて、答えを引き出すのは対象者自身だ。

コーチの力量は問いかけ力だと思う。良い答えをたくさん知っているよりも重要だと思う。

 

 

Try & Errorを繰り返すためには失敗を恐れずに失敗してそこからどう考えるか、どう観察するかが必要になる。失敗を責めても仕方がない。なぜ失敗だったのか、どうしたら良かったのか、など失敗しないと学べないことが厳しく叱責されては恐怖心が大きくなり失敗しないように、と果敢にチャレンジすることが少なくなる。

果敢にチャレンジした結果、ミスしてしまったとしてもそれはチャレンジありきのミスでありNice Try!だ。

 

藪から棒に、ただひたすらがむしゃらに、でもなく。熱い好奇心や誠実な情熱に裏打ちされた"チャレンジ精神"が、成功や成長を手繰り寄せる。

それはコーチであっても忘れてはいけないと思っている。コーチとして、選手の、誰かの目的を実現することを心の底から応援し、サポートする。そのために自分には何が出来るのか。そんな本気で向き合ってくれる人が多ければ多いほど、"自分は人に恵まれていたな"と心から感じ、今度は自分がそれを誰かに、と思うのではなかろうか。

 

 

①相手の話をよく聴くこと

②感じたことを伝えつつ相手を認める(受けとめる)こと

③お互いにコミュニケーションをくり返しながら"答え"に近づく努力をすること。

 

コーチと名の付く職業にあらずとも、誰もが誰かのコーチになりうる。誰かと一緒に苦しいことや困難を乗り越えた末に喜びや感動を共有する。たった一人で乗り越えられることなど、そう多くはない。

 

相手が本気かどうかより、まずは常に自分が本気になってこの3つを大切にする。

それが私の信条です。

“異文化"を受け入れる。

 

昭和世代と言いつつも。
人生の大半は平成で過ごしたワタシですが。

育った環境は"THE 昭和"な厳格な家庭だったし、
何なら嗜好や考え方がもう一回り早く生まれててもおかしくない、ガッツリ還暦手前くらいの中身なんです。だもんで、令和の時代が異文化、異国のように感じることが多くて面食らうことが多々あるのです。

 

 

自分よりも2回り以上歳の離れたコたちの言動に度々、頭を殴られたかのような衝撃を受け、今まで自分の中にあった"ジョウシキ"が実は非常識だったのか?!と思うほど。

でも、どんなに時代が変わろうとも相手への敬意は忘れてはいけないと思うのです。それは、不変的なものではないかと思うのですが、もしかしてそれすら古い化石的思考なのか?!と一度は疑います。

 

 

解決策は、“異文化"だと受け止めることにしました。
良かれと思って『こういうのはね…』と諭したところで、それは自分の物差しであって、誰しもそう感じることではないかもしれない。もしもワタシと同じように感じる人がいて、その人に怒鳴り散らされたりしないようにあくまで個人的な意見として『こういうふうに思われることもあるかもよ』くらいは伝えるべき?と悩みに悩むのですが。

異文化という確固たる自我を形成するのは…大人になってからでもいいのかな、と。18歳未満なら、そこそこのご家庭の環境もあるだろーけども、いろんなことを知っていた方が引き出しが増えて、それが必要か否かはその後の人生で己が決めれば良いのでは、と。

 

 

明らかにワタシにとっては不快な行動をされて、

それをね、その時は指摘したんです。

『今それ、ダメだよね?』と。

これも良くないのかもしれない。

 

そしたら彼はなぜそれが指摘されたのか、なぜ不快に取られるのかがわからない、と言ったのです。

 

何故?

 

何故って、相手に失礼だからに決まってるじゃない!!とワタシの脳みそは言い切る。

でも目の前の相手はそれが何故失礼に値するのかがわからない…。あなたのご両親は不快に思われないのかしら?それともご両親の前ではしたことないのかしら。え、だって、失礼でしょ?失礼よね?…とワタシの脳みそが焦り始め…私、その時、その"何故"に対する答えを言えなかったんです。情けないことに。

だから咎めず否定せず、あのね…こういうふうに思う人もいるんだよ、ってことは知っておくといいかも、くらいは教えてもいいのかな、と。

そしたら異文化の考え方ももしかしたら聞けるかもしれない。私がただ単に昭和の理不尽さを甘んじて受け入れて生きてきただけで、私も異文化に触れることで引き出しが増えるかもしれない。

 

 

自分がされて嫌なことは人にはしない

自分がされて嬉しいことには必ず謝意を述べる

相手には必ず敬意を示す

 

せめてこの3つくらいは、いつの世になっても不変的であって欲しいと願う。

 

昭和生まれ、平成育ち。

でも中身はバリバリの昭和っコのイシイの呟きでした。

 

f:id:physical141yuko:20230419173017p:image

評価の順番。

 

それで、いいのだ。

と昨日は思えてた。いや、今も思ってはいる。

ただ、昨日のワタシの方が強かった。

翌日になって、いつもの悪い癖がチンアナゴのように出て来ることなんて、よくある。

 

f:id:physical141yuko:20230406165041j:image

 

うん、呼んでない(笑) 

 

相変わらず弱いなー!!

仕方ないのさ。

これが、残念ながらワタシだ。

繰り返し繰り返し、強くなるしかないのだ。

 

 

評価には、順番がある。

そして、自己評価と他人からの評価には当然のことながら食い違いというか差がある。

『無視→賞賛→非難』

この三段階を経て人は一流になる、とはボヤキのノムさん、野村監督の言葉。

 

 

誰からもどこからも相手にされない、"無視"をされる段階でどれだけ歯を食いしばって踏ん張れるか。良くなってくれば、次に"賞賛"され、活躍することが当たり前になると今度は期待通りにやらなければ"非難"されるという段階に辿り着く。その期待に応えるからこそ、一流なのだ。

 

愚痴が出るのは、高望みをするから。『分を弁えていないから』、ともいう。

 

 

 

分を知り分に生きる。

己の実力や立場をわきまえなければ、何をなすべきか答えは出ない。

でも、その己の実力とか立場もまた…自己評価と他者評価とでは食い違うだろうと思う。

 

 

チャンスがないなら、認めてもらえていないと感じるなら。努力し続けるしかない。正しい、努力を。努力する方向が間違っていてはいつまで経っても報われない。

 

今のワタシにとっての正しい努力とは。

シノゴノ言わず、目の前のことを丁寧に全力で、more better。

 

f:id:physical141yuko:20230406165458p:image

 

 

それで、いいのだ。

 

常々思ってるんですが…(笑)

『ミステリと言う勿れ』田村由美


 

世の中には"ワタシにしか出来ないこと"なんて、ない。

ワタシに出来ることは他の誰にでも出来ること。

代わり(替え)はいくらでもいる。

謙遜でも何でもなく、ワタシは常々そう思っている。

 

決して卑下してるわけではない。

そうは思っていても、自分のやってきたことや自分の仕事にはそれなりに責任もプライドもある。だから、他の誰にでも出来るからといって手を抜いたりなんてことはしない。

どうせ誰がやっても同じなら、他の誰よりも”more better"、それを常に心掛けるようにしている。誰がやっても変わらないけど、”あなた”にお願いしたいと言われたい。

それは承認欲求が過ぎる、と言われれば身も蓋もないけれど…承認欲求が強い方だと思う、というのは認めている。

 

 

そんな性格なので、明らかに認めてもらえていないと感じる瞬間に出くわすとかなり堪える。あぁ、ワタシは目の前のこの人に認めてもらえていないのか、と結構深い落とし穴に突き落とされたような錯覚に陥る。

とはいえ、相手が大きな間違いをおかさない限りは、スッと努めて自然に場を譲ることにしている。ワタシの方が適役のはずなんだけど、と思うのだけど、その人に出来ないことでもないから…まぁ、いいか。と。

 

でも『ちょっ!ちょっ!!何でしゃばってんのさ!ここは私でしょ?』と心の中では叫びまくってたりするので顔に出さないように気をつけなければならない。目の前の本人はワタシよりも自分、と思ったからこそ華麗なるスルーを決めこんで手をつけ始めたのだろうから。

一応、心配だから見守りはする。

けど、求められるまで口も手も出さない(そんなキラーパスは絶対に来ないだろうけど)。

あぁ、あそこ気がついてないのかな

んー、、もう少しそこは…と

決して否定はせずに何故その人の選択を尊重しながらことの成り行きを見守る。

実はこの姿こそがいちばん疎まれてたりしてw

(そんなつもりは毛頭ないんだけど)

 

以前のワタシなら頭に血がのぼって、心の中で叫んだそのままに怒りも収まらず見返してやるだの認めさせてやるだのと心の中で地団駄を踏んでは、言葉にならない感情が涙になってぽろぽろ溢れることもある。(泣けばいいなんてこれっぽっちも思ってないが、泣きやすいのが欠点でもある)。それが、最近は(最近もあったんかいw)まぁ、そんなに華麗にスルー決め込んでくれるならいいよ、譲るよ、とちょっと余裕を持って一歩下がることが出来ていた。

 

もしかしたらその人にとって、スルーでも何でもなくて、もはや目に入ってないレベルだったかもしれない。

でも別に…その人に認めてもらえなくてもいいわ。見返してやる!なんて思うだけムダ。それが本質じゃないし、といつのまにか自分の中で揺るがないものが出来上がっていた。

 

本音を言えば認めてもらえてない切なさや悔しさはあるよ。けど、万人に認めてもらえるなんてことはそれこそ大谷翔平選手くらいかもしれないし!(笑)

わかりやすい肩書きや経験値だけで見定められるなら、ワタシなんてスルーされても仕方ないわな、と思えるようになってた。自分でも驚くべき進歩であるΣ( ˙꒳˙ ;)

 

誰に認められようと、誰にスルーされようとも。"ワタシはワタシ"。それでいい。

曲がりなりにもこのカラダとこの色で生き抜いて来たんだし、少ないかもしれないけど、"あなたに"とワタシを認めてくれてる人もいる。

 

 

それで、いいのだ。

強くなったなぁ、アタシ(笑)

 

I Believe.

 

ワタシ、熱苦しい上に情に脆くて、自分の関わってる人たちのことは心底信じたいと思ってます。要するに苦手な人は苦手だと思います😅

 

 

信じる、という言葉は聞こえがいい。

信じてもらえるというのは嬉しいことだと思うんです。ただ信じる≒期待してるって紙一重なのかな、とも思うわけで。

今熱戦を繰り広げ中のWBCにおける侍JAPANにしても、勝利を信じてます!というファンも居れば勝利を期待してます!というファンもいる。どちらも結果同じだと思うんです。ただやはりプロ選手としては期待されてナンボ、というところもあると思うのでそこは別格です。

でも手の届かない、一方的に目にすることは多々あっても会話なんて一生することもないかもしれないプロ選手に、私たちは信じたい気持ちや期待を胸にその戦いぶりをリアルやTVで見守り、その勝敗はもちろんだけど戦う姿から活力をもらう。ああ、あの人もこんなに頑張ったんだから自分も頑張ろう、みたいな。それは、全然悪いことじゃないし、プロ選手たちの使命のひとつでもあると思う。

 

 

でも気をつけなければならないのは"信じた"姿や未来、結果は、"その人自身"を信じているのではなくて、あくまでこちら側の、"自分が理想とするものに期待してしまっていること"かもしれない、ということ。

だから、自分が理想とした、想像していたものと違うと裏切られたような気になったり、勝手に失望したりしてイライラしたりする。あくまでその人のせいではなく、自分の勝手な"信じる"心が創り出した偶像であるその人のせい。現実のその人にしたらえらい迷惑である(笑)

勝手な思い込みによって創り上げられたその人の見えなかった(もしくは見たくなかった)部分が見えたときに、あぁ、自分はなんて勝手なフィルターでこの人を見ていたんだろう…って、その人に失望したりするのではなく、自分に矢印を向けられるか、そしてこれもその人なんだ、と受け止められる"自分"がいるか。それが信じられるということじゃないのかな、と。

この"自分"のことを芦田愛菜ちゃんは『揺るがない自分みたいなもの』と表現していたが、、改めてあのコはすごいなぁと鳥肌がたった。

愛菜ちゃんのスピーチを聞いて『そうそうそうそう!!』と共感したものの、彼女の倍以上生きてるワタシはこの"信じる"という感情についてうまく言葉に表せなかったからだ。

 

 

誰だって、揺るがない自分を持つことは難しい。だからこそ、自分に向けて"信じる"と言い聞かせることで不安を払拭したり、自分を正当化しようとしたりしたいのかなぁ…、と。

 

でもね、"信じる"って、一方的な自分勝手な思いでなくちゃんと使えたら…やっぱ素敵な言葉だと思う。でも難しいなぁーーーーっ。近しければ近しいほど、想いが強ければ強いほど、きっとそのフィルターには色がつく。期待してる、信じてる自分に気が付いたら一旦冷静になってちゃんとその人を見れているかを確認する必要がある。

 

 

でもね(2回目w)

期待させるようなこと、言う人もいるんですw

言う人も悪い!!と言いたくなることはある!

 

…夢見させるようなことを言うな!!!

 

f:id:physical141yuko:20230319072825j:image

スラムダンク 第71話「BASKET BALL」より引用

 

ね、木暮くん(笑)

 

 

自分の言葉、行動が誰かをその気にさせてしまうことがあるかもしれない。そこまで考えてたらなーーーんにも出来ないかもしれないけれど(笑)どんな面を見ても何が起きても"揺るがない"人間関係が築けたら素敵だなと思うのです。

 

それは、罪なことなのか。

どちらかというと、熱量の高い熱苦しい性格のワタシ。

というよりかなりそちら側に振り切ってる人間か(笑)

 

たまにね、思うんです。

世の中には熱量の高い人もいれば低い人もいるけど、どちらかというと高い人の方が疎まれやすいんじゃないかなって(笑)そして熱量って、価値観に大きく影響されるものだと思うんです。

価値観が違えば当然優先順位も違う。お互いがその違いをリスペクトして受け入れることが出来れば平和なのだけど、恐らく熱量の高い側の人間は低い側の人たちを何とか自分たち側に引き上げようとか、どうしてそんなに低い温度でいられるんだい!?みたいな(笑)わりと”強要”しがちなんじゃないかなと思うのです。

…自分を振り返ってみて(;´・ω・)

でも熱量の高い人は少しでも早く、確実に目標だったりゴールにたどり着きたい。低い側の人は遅かろうが早かろうが最終的に辿りつければいいんじゃないの、と思っている人が多いのかな、と。

 

 

熱量の高い人と低い人って、永遠に(←大袈裟w)分かり合えないもんなのでしょうか。

ワタシが一番欲しいのは熱量なんだって最近になって気付いた。

いや、知ってました気付いてました(;'∀')再認識したってことです。

 

チームや組織には必ず”ゴール”が存在します。

ゴールに向かって、構成する全員が同じ熱量で立ち向かえたら、たとえゴールにたどり着けなかったとしても共有した時間や経験はかけがえのない宝物になるはず。

…それって、熱量高い側の人間の思い込みですか?(笑)

 

だって、達成したいよね?

せっかくなら良い思いしたくない?

 

って、思いません?(笑)

しなくていいならやめて違うことしたらいいのにって思うんです。

それがね、意外と熱量低い側に居がちなんです。ちょっと周りよりセンスとか才能とかある人。思い当たる人いません?(笑)

だからこそ、もったいない!とかもっとやればいいのに!!なんで!?って思う。

 

もっと【more better】というのはなかなか難しい。

もっと、というのは期待値に他ならない。

期待というのは勝手なものでイメージや思い込みが暴走して現実を美化していくこともある。

 

 

トレーナーという仕事において(あくまでワタシは、だけど)遣り甲斐のあるチームや選手って…決して強い、巧い、強豪、それだけじゃないんです。

どれだけ熱量高く打ち込める人間(チーム)か、そこがいちばん大事。

私自身が熱量高め人間なので…(-"-;A ...

熱量が高いゆえの衝突はいい化学反応を生むが、熱量の差による衝突は苦しいだけ。最悪の場合、チームが空中分解しかねない。

 

 

熱量高め人間は生きにくさを感じることが多いです(笑)熱量が高いことは罪なことなのか?と思いたくなることもしばしば(笑)

でも熱量の差は価値観の違い。相手を受け入れたうえで自分がどう接するべきなのかを見極める。それは相手への諦めではなく一種のリスペクト。みんながみんな、自分と同じ熱量だと思うな。自分への戒めです(笑)

 

熱量が高いことは悪いことではない。

熱苦しいと言われることも思われることも、嫌味だとしてもポジティブに受け取る!熱量が高くて何が悪い!(笑)大事なのは強要じゃない。共有。

 

 

『自分が美味しいと思ったからって、ほかの人も美味しいって思うとは限らないからね?』と同棲している彼に言われたのと笑って話しながら、それでも”自分が美味しいと思うもの”をお土産に買って帰ろうとする彼女。強要したいんじゃなくて、自分が食べて美味しかった~って思ったシアワセな気持ちを共有したいのよ(笑)

 

 

自分のことをシアワセに出来る人は、ほかの人もシアワセに出来る人。

 

熱量が高いがゆえに自分以外の人のシアワセのために、と腕まくりしがちなワタシですが…強要ではなく、共有!!!

 

共有出来る熱量高め人間なら、罪じゃない(笑)

罪悪感。

フリーランスと名乗ってあっという間に20年。

20年ですって😱恐ろしい。

 

フリーランスで働くということは自分に自分で値段をつけることなんです。



その値段には

責任とか覚悟とか

いろんな想いが入り混ざってるわけで

決して"これくらいでいいだろう"なんて気持ちではなく…設定金額以上の価値を感じてもらえる仕事をしたいと常々思ってるわけです。

 

 


お金をいただくということは

信頼の対価をいただくこと。

 

だから(必要以上に)安価に設定するということは自分自身への言い訳に繋がる…わけで。

新車ベンツが軽自動車くらいの値段で購入出来るって言われたら何で?って絶対訝しむでしょ?(いや決して新車ベンツ=イシイと言いたいわけではない😂)

 

 

自分の単価を上げる=責任は増える

(仕事が来なくなるんじゃないか)

(こいつ何様と思われないか💦)

(あげた分の成果は絶対出さなきゃ🔥)

無論その覚悟はあると思っていたけれど。

時間と労力が対価、

自分が対価に見合うかどうかの不安も常に付き纏う

今以上に自分の全てを投げ打って、、

その覚悟はあるのか?と。

 

 

妥当な安価に設定することは、相手の期待値を上回りやすい。決してそんな楽な気持ちで仕事してるわけではないけれど、月7桁稼ぐ指導者に教わるのと、月5桁の指導者に教わるのって、例え同じメニューを提供したとしても受け取る側の感覚とか期待値って当然違うと思うわけで。

 

でも別に、そんなに稼ぎたいわけじゃない。

って、ずっとどこかで思ってたけど

実は…

 

稼げちゃったら別人になりそう😱

てかアタシ…そんなに稼いでもいいの?

いやいや実は全然稼げないんじゃないか

 

と、あることないこと言い訳が頭の中に次から次へと浮かんでくるわけです。

 

 

別にそんなに稼ぎたいわけじゃない。

これも本心。

だって別にお金に困ってるわけじゃないし、ただあったらあったでやりたいことも好きなものも躊躇なく片っ端から叶えることは出来る。

 

ただ、別に今、困ってるわけじゃない。

けれど"稼ぎたい"と思ってる自分もいる。

でも稼ぐと言う言葉すら、今までずっと口から出すことに躊躇してきた。何か稼ぐと言う言葉に後ろめたさとか罪悪感をいつも感じてしまっていた。仕事にしているのに。

 

 

矛盾してるようだけど、誤解を恐れず言うなら…ただただ、このままの"自分のままで"稼いでみたいだけ。どこまで通用するのか、どれだけ求めてもらえるのか、力試しがしたいだけなのに、やっぱり怖い自分がいる。

 

このままじゃダメかもしれない。

一つステージを上げないとダメになるかもしれない。なりたかった自分になれないかもしれない。そう思ったからこそ、手放そうと思った。

 

手放すと決めたら周りが勝手に動きだした。

そうして長く続けてきたことが一つ、アタシの手から放れることになった。

 

 

せっかく好きな仕事でフリーランスとしてここまで来れたんだから、楽しく、楽に(苦労する身は厭わねど、苦労し甲斐のあるようにってこと←by 高杉晋作)もっと自分らしく仕事をして稼いでみたい。

 

 

そう思うこと自体、イシイは変わってしまったと思う人も、もしかしたらいるかもしれない。

けれど、ただ闇雲にめっちゃ稼いでやる!ってシフトチェンジしたわけではないのでイシイは何も変わってないと思うのです。罪悪感を感じることなく対価を戴きながら、のびのびと惜しみなく自分の全てを注いで仕事する。

 

 

ワタシもアナタもWIN-WIN!!!

そんな理想を叶えられる自分になりたい。