Monologue〜フィジコISHIIの熱苦しい独り言〜

フィジカルパフォーマンストレーナーのイシイです。仕事のこと思ってること熱苦しく呟きます。

温度。

 

元来、文系人間なので理系の難しいことはさっぱりなのだけれど。

 

水(常温25℃と仮定)が沸騰するのには、どれくらいのエネルギーがいるんだろうとふと思った。

オッケー ○oogle、水が沸騰するのにどれくらいのエネルギーが必要?とググる

 

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難しいことはよくわからないけれど、

水1gを1度上昇させるにはエネルギーが1cal必要らしい。わかりやすく1ℓの水(1,000g)を常温(25℃と仮定)から沸騰(100℃)させるには、ざっくりいうと25℃→100℃、75℃上げる必要がある。つまり1g→1cal、1ℓ→1,000g→1,000cal。

ということは1,000×75→75,000calで、cal×1,000→1kcalになるので、結果75kcalのエネルギー(細かいことは言わず)が必要ということになる。75kcalってどれくらいのエネルギーじゃい!というとこれまたざっくり言うと体重60kgの人が10分水泳すると75kcal消費する。

 

 

水を75℃上げるのにこれだけのエネルギーが必要なのに、100℃の水は放置すると1分経過するごとに1℃下がるそう。温度を上げるのにはエネルギーが必要なのに、下がるのにはエネルギー要らないんだ…、、。わかってたような、でも改めて調べてみるとちょっと茫然(笑)。だって、熱い状態を保つには当然エネルギーがいるのに、冷めるのはエネルギーいらないんだもんなぁ。放っておいても、冷める。熱い状態を保つには"熱"がいる…人間も水と同じだな、なんて思ったわけです。熱量(モチベーションとか意識とか)の高い集団はそれを構成する人たち一人一人が熱量を発して、結果、チーム(集団)全体の熱量(モチベーションや意識)が高い状態にある。ポジティブな集団は熱量が高い。逆にネガティブな集団は何もしないで現状に不平や不満をこぼすことはあってもそれを改善しようというアクションがなければ、熱は上がらないし、下手したら周りの温度さえ下げかねない。

 

 

自分の熱を保つことも、難しいことはある。

それが集団(チーム)ともなれば、一人だけの熱量ではなかなか全体の熱量は上がりにくいし、時間がかかっても全体に広がって温度が上がることもある。あるけども、それまでに相当な熱量を発し続けるだけのエネルギーは相当必要になるし、一人ではやっぱり限界もあると思う。それでも、冷め切ってしまったら熱くなるまでエネルギーも時間もかかる。。

 

ポジティブに進めているときは自分も周りも熱量が高い。ネガティブがちだったり、うまく行かないときは誰かが、気が付いた人から発火したらきっといい方向にいく。一人はキツい。キツいけどその一人がいなかったらいつまでも熱は上がらない。

 

"居心地のいいぬるま湯"は、冷めやすい。

その温度を保とうとするにも熱量はいる。居心地の良さを保つために努力するか、居心地の良いところに移るかのどちらか。前者なら居心地の良いぬるま湯はきっといい保温状態。冷めないようにしようって、努力じゃん。

 

熱を発し続けるのはしんどいかもしれないけど、冷めたくない。どうしても熱を発し続ける気力が保てないときは、せめて自分の大事なもの、大事にしたいものだけは見失わないようにしっかり握りしめて、耐える。そうしたらたとえ冷え切ってもきっとまた熱を発することが出来ると思うから。

 

 

ぬるま湯よりは熱めのお湯がいいなぁ。

アタシはね。

夏の終わり。

今年も夜通し丸一日ぶっ続けの番組が終わった。
あれが終わると本格的に夏が終わろうとしてるんだなという気持ちになる。
大概、オープニングだけだったり最後のマラソンのゴールシーンだったりしか見ないのだけど(大体にして直後や翌日にハイライト的な特集や舞台裏の特集なんかがあるから気になったらそっちで見たりする)

こんなにもSNSが発達したのはいつからだろう。殆どつぶやくことはないが情報収集のためにアカウントが存在するTwitter。情報収集に関してはめちゃくちゃ便利だと思う。つぶやきたい人、教えたい人がいるお陰でワタシのような人が発信者の知らないところで恩恵に預かっているわけだ。

SNSのなかでもとりわけ素性が分かりにくい気がするTwitter
顔が見えないと人はこうも攻撃的に物事を発信出来るのか、と恐ろしくなる。
それと同時に関わることのない人たちの言葉のチョイスや見方の角度、自分にはない思考なんかに触れられるので目を通して苦しくなることもあるけれど、なるほどなぁ、と思うようにしている。

 

 

さてそのまるっとぶっ続けて放送する某番組について。
実をいうといつの頃からかあまり好きではなくなった。
どうも演出が熱過ぎる(笑)のだ。健常者であれ障害をもっている方であれ、誰かが何かを必死にやり遂げようとする姿はそれだけで十分ドラマがあり、十分胸が熱くなり、号泣するには十分すぎる。そんなの、まるっとぶっ続けて観ていたら泣き疲れて頭痛がしてくるのが関の山。それなのにそれに輪をかけて感動を誘うような演出になっている気がして…泣き疲れしたくないのよ。感動するのが分かってるから。そこまでやんなくても十分感動するのに…と。同じように思っている方々もごまんとおられるようで(笑)Twitterには現に障害のある方が『なぜ障がい者は挑戦することを強いられるのか』的な書き込みを発信していて。あぁ、そういう捉え方もあるのか、と。

TV番組とは言え、挑戦を強要されたわけではなく、きっとご自身が挑戦したかったことをテレビ局がバックアップしてあの番組が成り立つ。挑戦しない人がダメなわけではtyなく、挑戦したくても挑戦できない人を誰かがバックアップする、サポートすることで想いを叶えることが出来る(放映される、という最大のリスクはあるけど)。それって素晴らしいことだなと、なぜか今年のワタシは思えたのです(笑)しかもこんな境遇の人もいるんだ、こんな障害をもっている方もいるんだ、こんな障害があるんだ、と取り上げてもらわなければ知らなかったとだってたくさんある。そういったものに触れる機会が一年に一度ある、それはそれで素晴らしいじゃないか、とまるで今までとは真逆の見方が出来たのです(笑)障害をもっている方の本当のところはやっぱり同じ境遇の人にしか結局のところ伝わらないかもしれない。いや同じ境遇であったとしても個性や価値観が違えば分かり合えないかもしれない。…そう考えると所詮人間は誰とも100%わかりあうことなんて出来ないんだな、と切なくなるけど、そもそもが無理な話なんだろうな。わかんないんだよ。本当のところなんて結局。でも”わかりたい” ”わかろうとする”、同情ではない歩み寄りをお互いが持つことは出来ると思う。それは知ったかぶりとは違う。そこははき違えてはダメ。

 

ワタシは常に”わかりたい”と歩み寄ろうとする気持ちを忘れないようにしている。
自分と真逆の考えだったとしても(言葉のチョイスやシチュエーションによってはカッチーーーンって来てしまうことありますが)何故そう思うのか、なんでそんな言い方しか出来ないのかをまず考えよう、と。(その時点で9割ワタシが歩み寄って感じがするけど笑)それって…正直、心が折れそうになる時もあるし、歩み寄る以前にぽっきり折られることもある。それでもやめられないんだなぁ…きっと、この生き方。

 

 

とまぁ、そんなこんなを考えていたらあの番組も強ちお涙頂戴系の押し売りの番組でもなくて、挑戦することの大切さとか頑張ってる姿勢って何にも代え難い尊いもんだなぁって、今年のワタシは思えた。

直前にこの本を買ったからかも。

 

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ものすごく良かった。

何度も何度も読み返したい。

読み返すたびに違う読了感を味わえそうな気がする。きっとワタシはこの作品の著者の午後さんと内面は近いものがある。

 

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改めて人に優しくありたいなと感じた夏の終わりでした。

 

作品▷眠れぬ夜はケーキを焼いて1,2

著者▷午後

WEBでも読めるようです。良かったら。

https://ddnavi.com/serial/nemurenuyoruke-ki/

 

1mmの、。

 

シンクロは最近?名称を変えてアーティスティックスイミング(AS)と言うらしい。その世界選手権のソロで日本史上初の金メダルを獲得した乾さん。

 

 

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写真はYahoo!ニュースからお借りしました。

(https://news.yahoo.co.jp/articles/8ca41c02bd8ee78a0792fc1e340b0fd6326284ed)

 

 

乾さんのコーチはあの井村さん。

昨夏の東京五輪後、日本代表ヘッドコーチを勇退した井村さんが専属コーチとして徹底指導したそう。ロシアとフランス以外のソロ金メダルは初の快挙。ロシア勢が不参加だったとは言え、素晴らしいことだ。

その、乾さん。

井村さんの言葉で大事にしている言葉があるとインタビューで話していた。

それが『1ミリの努力』。

いきなり10cmは無理でも、1mmだったら頑張れるかもしれない。そうやって毎日毎日1mmの努力を続けていたら10cmに届く日が来る、的な。

 

 

この言葉の起源は2002 年のアテネ五輪でシンクロデュオで銀メダルを取った立花・ 武田選手を指導していた時に遡る。

デュオで大事なことは息が合い動きがズレず、同じように見えること。 しかし、立花選手と武田選手の身長差は5cmあったそう。そうなると特にジャンプに差が出たらしい。そこに違和感を覚えた井村さんが、武田選手に"あと 5cm 高く飛べるか?" と聞くと、武田選手は"無理です...できません"と答えたそう。そりゃそうだ。地上でだって5cmは相当だ。それを水中からのジャンプで5cm…。でも、あと5cm高く飛べないと綺麗には見えない。そこで井村さんがかけた言葉が、"明日あと1mm高く飛べるか?"。と、武田選手から返ってきた言葉は"頑張ってみます"。そして翌日1mm高く飛んだそう。

そして次の日も"もう1mmだけ高く飛べるか?"と井村さんの問いに、 昨日1mm飛べたという自信がついた彼女は"頑張ります"と答え、また1mm高く飛んだ…。それを10日やったら1cm高くなり、時間をかけ最終的に目標の5cmまで到達したんだそう!!すごい…。

毎日毎日、少し進んでそれを自分のものにする。カンタンなようで難しくもあり、でも手が届きそうな目標。たかが1mm、されど1mm。この1mmの積み重ねこそ、まさに"ちりつも"。

 

 

一方、反対の意味の "1mm の損失" という言葉もあるそう。まぁいいか、これくらいでいいか、みたいな。そんな、ほんの少しの出来心と怠惰心。その1mmの損失の積み重ねもあとで大きな差になる。たかが1mm、されど1mm。せっかくなら自分の気持ちの持ち方で弱い自分にストップをかけられる自分になりたい。

 

今日も昨日の自分よりも1mmでも半歩でも前へ、上へ。大きな目標なんてなくても、そんな努力を忘れない自分になろう。

自覚。

自分が、弱い人間だってはっきり自覚したのはいつだろう。
20代前半はそれこそ依存性の強い、落ち込み型でした(^^;;あの頃たくさん迷惑かけた方々には感謝してもしきれない…(^^;;

 

 

自己肯定感が低いとはっきり自覚したのも、もしかして30を過ぎてからかも。

 

そして、キャパ以上のものを自分に課そうとします。自分への理想が高い。自分で自分の首を絞めるタイプ(^◇^;)

言いたくはないけれど…ずっとやれば出来る、これくらい出来て当たり前、もっと出来る…そんな環境で育ったから、出来ない自分が許せないのかもしれません。常に"出来る"自分でいなければ、とまだどこかで、潜在意識的に思ってる自分がいる。まさに三つ子の魂百まで。苦しいけれど、そういう性格だからこそ努力してこれた部分もある。
トレーナーになりたい、トレーナーとして仕事がしたい。四大卒よりも早く社会に出て2年多く経験積むんだ、と鼻息荒く飛び出した20歳の頃。いきなりフリーランスとしての生き方は無謀だったかもしれない。でもそのとき飛び込んだから今がある。
脳は変化を嫌うから苦しんでてもこれがアタシだって思わせたいのかもしれない。もっと楽に、出来ない自分もすんなり受け入れられたら楽なのに。

 


 

アタシを不安にさせているのは、知識と経験の残高が減ってきたことだとある人が教えてくれた。的を得た言葉だった。コロナ禍で思うように現場も増やせず、ほかの人の指導現場を見る機会も減り、リアルなセミナー参加もままならない。いくら行動制限のない夏、と言われてもなかなか足は向かない。すべてがコロナのせいとは言わないけれど。20歳でスタートダッシュに成功したアタシは振り返ることも立ち止まることもせずただただ前を向いて全速力で走り続けた。思いっきり転んだりして痛い目にあったことは少なからずあれど、走り続けた。でもいつのまにかたくさん追い抜かれていった。それは当たり前のことだって頭ではわかってた。だから走り続けた。どんなに苦しくても歩くスピードと変わらなくなっても足は止めたことはない。今も、立ち止まったりはしても走ることは止めてない。きっと、ここが踏ん張り時なんだ。どうやって残高と引き出しを増やすか。抜かれて抜かれてビリだったとしても、走ることやめなかったら、誰かに必要としてもらえるかもしれない。やめるか続けるかは自分次第だ。

 

 

ゴールがどこにあるかはわからないけど、もう少し走り続けようと思う。

Continue,とは。

"続ける"ということについて。

どんなことであれ、続く、続けるということは安易なことではない(どう続けていくかにも当然よるけれど)と思う。

だから何かを長く続けられる人は"続ける"才能に長けているんだと思う。

 

 

①何気なく(大した努力もなく)続いていること

②辞められなくて(この場合は多少の不本意もある)続けてること

③好きで続けたくて続けていること

どれも続いてることに変わりはないが中身はだいぶ違う。

①は習慣化されているものが多かったりするのではないだろうか。

②は自分が始めたことではなく誰かから引き継いだ事柄であったり頼まれたことの割合が大きいかなと。いやいや引き受けたではないにしろ、多少なりとも不満や犠牲を払いながらも続けるようなこと、かな。

③なんかは趣味そのものだろう。好きで好きで時間やお金を費やしてでも続けたいような、自分が好きで仕方ないこと。

 


どう続けていくのか、いつまで続けるのか、どうして続けるのか。上記のようにコトと場合によって変わってくる。何か見返りがあるから我慢して続ける、なんてこともあり得る。それはむしろ"続けること"よりも"存続"させることにのみフォーカスされてる気もするけれど、それも致し方ないこともあるのかもしれない。

 

 

続けることがツラいなら、辞めればいい。

本来、続けるか続けないかなんて自分が決めていいはずだ。だから続けることがツラくて、続けることに何の意味もないなら時間や労力の無駄だから辞めればいい。辞めたら、楽になる。辞める決断をするのも苦しいなんてことは多々ある。ただ、辞めてしまえば終わる。今まで苦しかったのは、悩んでいたのは何だったのかってくらい呆気なく…物足りなさを感じてしまうかもしれないくらい、呆気なく終わる。

だから、"続け方"も"終わり方"もどっちも大事だと思うわけで。続けるのも終わりにするのも自分が決めて、後悔のないようにしてほしい。続けたくても続けられないことだって世の中にはある。続けるか終わりにするかの決断を自分で下せることはシアワセなことだ。だからこそ、その決断には責任と覚悟がもれなくつきまとう、とも思う。責任や覚悟だけで継続しなくてはいけない時もあるかもしれない。その役割を担った人がいて、今があるのかもしれない。

 

事によっては終わりにすることよりも続けることの方が背負い込む責任と覚悟は大きいかもしれない。

 

渡されたものは最低限、現状維持。

渡すならより良いものにして託したい。

託された人が要らぬ苦労を背負うことなく気持ちよく続けられるように。

自分にできることが最低限の"継続"であったとしても。もしもそれが自分にしか出来ることなら、引き受ける。引き継がれて脈々と繋がってくものと、途中で自然消滅なり断絶なりでなくなっていくものの違いって、実は紙一重なんじゃないかな、なんて。辞めたり無くしてしまうのはカンタンだから。

 


負けたら終わりじゃなくて

やめたら終わりなんだよね
どんな夢でもかなえる魔法

それは続けること
苦しみ 悲しみ その先見える光 自分の道
ずっとずっとコンティニュー

 

 

Continue,とは。

柵も情熱も様々な人間模様が複雑に絡まった結晶なんだろうな。

透明人間、現る。

遡ることふた昔ほど前。

 

アタシは透明人間でした(笑)自ら望んでなったわけではないけれど。

確かにそこにいるのに、そこにいないのも同然で、ただただ黙ってギャラリーで練習を見て、終わったら帰る。その、繰り返し。

何のために来てるのかなんて考えたら負けだと思った。感情を殺して、ただ彼らがもしも困ったときに何か力になる(…そのもしもはほぼ無いに等しかったけれど)。

 

 

そのチームで2年目のことだった。

最上級生が同い年になり、前年以上に絆も深まって、もっと力になれるはず…なんて思って期待に胸を膨らませていたのに。それは妄想に過ぎなかった。彼らにとってアタシはまるっきり居ても居なくても変わらない、透明人間のような存在だった。試合の時こそベンチに入るものの、これと言って何をするでもなく下級生とともに雑用をこなす。トレーナーとしての存在価値など微塵もなかった。2年目、そんなもんなのかもしれない。1年目が上手くいき過ぎただけだったのかもしれない。卒業してすぐフリーランスで始めたアタシにとってこの2年目の試練はとてつもなくしんどかった。

そのシーズンは春と秋のリーグ戦はおろか、冬のインカレの戦績も含めてシーズンの全て何一つ記憶に残ってないっていう(笑)

翌年は打って変わってものすごくやりやすくて一生懸命で。なのになかなか勝てないっていうヤキモキしたシーズンだった。

その年の後輩たちの試合を観にきた”去年の選手”の一人に、珍しく声を掛けられた。
彼から掛けられた言葉は意外なもので。
もうそんな明確には覚えてないけど、あの頃は悪かった、今ならあの頃の有り難みがわかる、そんなニュアンスの言葉だった。
ああ、アタシのあの一年は無駄じゃなかった。
諦めなくて良かった。透明人間でも行き続けて良かった…そう思ったのもつかの間、違う考えが顔をのぞかせた。認めてもらえなくても頼りにされなくても。もしも何かあったときにその場に居なかったら絶対に自分が後悔する。意地の核心は間違いなくコレ。彼らのためという大義名分のもとに、実は誰のためでもなくいちばんは自分のためだったんじゃないか…って。意地だった。意地だったけど、何か彼らが困ったその時は、透明人間だったことは水に流して迷うことなく手を差し伸べよう、それが自分の使命だと。透明人間であることに耐え切れず感情のままにその場から去ったり、足を運ぶ頻度を減らしたりしても誰にもきっと咎められることはなかったとは思う。でも、立ち去ることもしなかったし頻度が減ることもなかったし、誰にも愚痴もこぼさなかった…あ。(いや、これは単にこぼせる相手がいなかったってだけ)

何が正解で何が間違いなのかはわからない。
けれど彼の一言であの頃の自分が一瞬救われたことは間違いなかった。
熱意はどんなに時間がかかったとしても必ず、誰か一人にだったとしても伝わるんだ…確かにそう思えた。

 

 

とある選手から、全選手の前で全否定されたことがある。
悔しかったけど正面から全て受け止めた。彼がそう思うのなら仕方がない、と。
それはボタンの掛け違いといえば聞こえはいいけれど私と彼は分かり合えなかったということ。彼の信頼を得ることが出来なかった、それだけのこと。目指す方向は同じだったけど、受け入れてもらえなかった。ただそれだけのこと。
私にだって言い分はある。あった。でも選手ファーストだと思っているし、当時の監督も私には非はない、と仰ってくだっさていた。それでも信頼関係が破綻しているならい続けるべきではない…。その日を最後に私はそのチームから身を引かせてもらった。
当の本人から数年後、何事もなかったかのようにSNSで絡みがあった時は驚いた。あの日、悔しさと悲しさでボロボロ泣きながら帰った私の涙を返せ――――ッ!!!!(笑)なんて。そんなことを今の今まで覚えてる執念深さ…嫌な性格ね(笑)

 

 

閑話休題
どんなに傷付いても苦しくても、絶対に自分から炎は消さないと言い聞かせてる。外からは消えたように見えてもいい。誰かに消そうと水をかけられたりしたとしても、じっと耐えて燻りながら燃やし続ける。消すなら自分で。消すのは辞めるとき。透明人間になってもそこに居続けるのはどんなにつらくても今火を消す覚悟が出来ていない証拠、だと思うのです。透明人間になっても、炎は消すな!なんてな。

 

 

あるべき姿。

Blogとはどうあるべきなんでしょう。

こんなこと言ってる時点でダメなんだけど(笑)最初の頃は仕事のスケジュールやイベント情報なんかも載せて、仕事に繋がれはという想いもあった。イシイという為人を知ってもらえたら。それがいつしか、好きなことを自分の言葉で誰も傷つけないように自分の想いをただただぶつけてもいい場所。そのカラーが濃くなったように思う。

これを読んでくれている人の中には知っている人もいれば近しい人もいる。顔も名前も知らない、会ったことのない人もいるかもしれない。誰に向けて書くわけではない。そんな場所が欲しかった。"書く"という作業が好きです。想いのまま、勢いで話すことも時には大事だと思うけれど、じっくり自分の気持ちと向き合いながら言葉を選んで、自分の想いを綴る。書くことで怒りの原因を冷静に見つめられて、何でこうなったんだろう?と相手の立場に立って考えてるうちに嫌な気持ちは多少薄れてくる。なので書くという作業はイシイにとってとっても重要なのです。

 

 

FacebookInstagramといったSNSともまた違う。ここにはここにしか曝け出せないイシイがいます。FacebookInstagramにはどうも自分のことはなかなか話しにくい。マイナスなことは話したくないし、かと言って良いことや嬉しいこともこんなこと別に…ねぇ?自慢することでもなかろう、なんて思えてやめちゃう。

他人のそういうのは良かったねぇ、なんて微笑ましく見れるのに面倒な性格だ。

でも、自分の中に想いが未消化のまま積もり積もってく。あー、誰かに言いたい!でも誰に話したらいいかわかんない!薄っぺらい共感はいらない!それなら、ただただあーそうなんだぁって聞いてもらいたい。頭ごなしに否定もされたくない。論破もされたくない。だってまずはアタシの素直な想いなんだもん!(笑)

 

 

そんなこんなで、Blogを続けようかどうか、悩んでます。このBlogでしかワタシのこと知らない人はワタシのことどんな人だと思ってるのかな(笑)もしかしたら知ってる人だって、このBlogでは普段会うイシイとは違うって思ってる人もいるかもわからない。

 

 

最近感じたこと。

それぞれに持ち場がある。

一人で何役もこなせるのは素晴らしい。

プロチームならトレーニングコーチ 兼 通訳 兼 栄養士 兼 治療家なんて人が一人いたらめっちゃコスパいい。ぶっちゃけ、通訳や治療は絶対何かと兼任出来た方がコスパ高い(一人にかかる負担はこの際置いといて)。

でも、それぞれに持ち場があるのよ。アタシはそれを尊重したい。自分が出来るのはここまで。ここから先は違う人に任せるところ、みたいな。和の料理人的に言うなら焼き方、煮方、椀方…それぞれがそれぞれをリスペクトして成り立つもの。自分の方があの人よりも出来る。そう思う場面に出くわすことも多々あると思う。その時にどう振舞うか。それって人間性が色濃く滲み出ると思うんだよねー…。目の前で自分の持ち場をさも自分の持ち場のように掻っ攫われたら。悪気がなかったとしても、なかなかこれは気持ちのいいものではない。え、器小さいのかな(笑)悪気もないだろうし、深い考えも、きっとない(と思う)。アタシにしかできないことなんてこの世の中にそうそうないし、そんなスバラシイ人材でもない。だから別にだれがやってもいいことなんだ、けども。だからこそイシイにお願いしたいっていう"必要とされる"ところにいたいなと思うわけです。それってわがままなことですか?

 

…なんてね、こういう話を誰かにしたいの。

でも誰にしたらいいのかわかんないの!笑

 

ということで、辞めようかどうか悩むこのBlog。かれこれ、20年近く続けてます。もう少しだけ続けるかもしれません。

どれくらいの方が読んでくださってるかわかりませんが。いつも読んでくださってありがとうございます。