Monologue〜フィジコISHIIの熱苦しい独り言〜

フィジカルパフォーマンストレーナーのイシイです。仕事のこと思ってること熱苦しく呟きます。

いいわけ。

好きなものや、やりたいことに理由はない。

いや、あるんだろうけど好きになれば無条件で優先順位も価値もあがる。理由はない。あるとすれば、好きだから。

反対に、嫌なことや、やりたくないことには山ほどの言い訳や理由が出てくる。嫌な理由や、やりたくないことが『出来ない』ことにすり替えられ、あたかも正論であるかのように思えてくる。

好きなことや、やりたいことであればどんなに厳しい状況でも何とかやれる方法はないか、と模索する。多少何かを犠牲にしたら負担してもやれるなら、と思うことだろう。

それよりも『出来ない理由』が後からあとから出てくるのは、本当に不可能なこともあると思うけど……大概はやりたくない、嫌だと、と感じてる自分をそう見せないためで、本能が、自分を守ろうとする行為なのか。本能なのかな、とか考えてる時点でそれすらも自分を正当化するる言い訳にしか思えない。

そう、思えた。

そんな場面に遭遇し、怒りよりも落胆の方が大きかった。期待、していたわけではない。でもどこかで信じたかった。そんな部分も知りつつ、本人の口から出た言葉が腹の底から出たものだと信じたかった。

出来ない理由よりもやれる方法を模索する場所に出来なかった、それだけのことなのかもしれない。でも、恩返しっていう言葉は…どんな状況でも、やれる方法を模索して何よりも価値や優先順位が上がるもんじゃないのかな…。と何とも言えない苦しい気持ちになった。

苦しい。

それだけじゃないことに気が付いた。

同じような轍を、自分も踏んで来たんじゃないかと思い出してしまった。

あの時は限界だと思った。だから出来ない、辞めさせてほしい…。あの時もアタシは彼と同じように辞めたい理由をあたかも正論のように訴えていたのか…?背筋が凍りつくような、肺を思いっきり握り潰されたような、苦しさを感じた。あぁ、アタシには彼に落胆する権利はないんだな、と。

いいわけって、見苦しい。

自分を省みれただけマシだと、それも経験だったと割り切るのは苦しくて。いっそ思い出せなかった方が良かった…いや。そんなことはない。苦しまないと、次に進めない。

いつもより夜風が肌寒く感じられた昨夜の話。

フィジカルパフォーマンストレーナーの、イシイでした。

 

 

 

終わりと始まりの間。

もうすぐ今日が終わる

やり残したことはないかい

もうすぐ、9月が終わる。

やり残したこと?んー…時間はあったけど、何か残すことは出来ただろうか。やり残したことも、やり切ったこともない気がする。

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秋晴れのミソカモウデ。

言われちゃいました。

今こそ信念をしっかり固めないと事態がさらに悪化すると。

"人はいろいろと言いますが私の心は移ろいません "

ん、今、そんなメンタル持ち合わせてない…とか思うけど"やりたいと思っている"ことがブレないのは心が移ろがない証拠にはなるのだろうか。なかなか、うまくいかないもんです。うまくいかない理由も何となくわかってはいて、、でも何かそこも誰に何と言われても移ろがないというか何というか(笑)だったらそれで、誰に何言われても世に出してしまえばいいのに…なんて。なかなか、どうして(笑)でもそれだけ"いいもの"、"納得いくもの"が形造られると信じて(笑)細く長く考えていこうと思います。学問も慎重にすれば吉、と出ているので今学びたいなと感じている分野を学んでみようかなと思ってます。

なんてやってるうちに寝落ちして、何だか忙しい夢を見て目覚めました(笑)どんな夢だったかな、とにかく何か穏やかではなかったことだけは確かです。何てスタートだ!

今日から10月。

 

型。

昨日たまたまかけていたTVでいい話を聴きました。著名人が課外授業というスタイルで若者に話をする、というもの。

若者は性別も職業も様々。高学歴ニート、ホスト、ダンサー、役者志望…俗に言ういたサラリーマン的な肩書の方はいなかったように思う。

ようやく話題作にちょこちょこ出始めたのに今回のコロナ禍で仕事がなくなりバイト生活に戻ってしまった、そのバイトを続けることにも違和感が…と言っていた若者に対しては『好きなことなら何だって我慢して続けられるよ。好きなことをやるのに我慢してやらなきゃいけないことがあって、それがどうも我慢出来ないっていうのは、そんなに好きじゃないんだよ。それならすぱっと辞めた方がいい。』と気持ちいいくらいばっさり切り捨ててました。若者の気持ちも…わからなくもない。きっと、そこそこ有名な作品に出始めてしまって、もっと芝居がしたいのに!せっかくチャンスが来たのにこれじゃすぐまた誰かに取られてしまうかも…とか変な焦りみたいなものを感じてしまって、でも何も出来ないし…(この場合の何も出来ないはきっと自分で思い込んでるだけ、かも)とか思ってしまったんだろうな。見方を変えればバイトがもしあるならそのバイトは演技に何かつながるかもしれない。バイトすらないなら本、映画、何だって練習することも、ヒントも転がっていたはず。。側からみたら同じこと思われてるもしれません、イシイも(笑)

高学歴ニートの若者。一流企業に入社したのにやりたいことが出来なかったから辞めた。。

イシイ、この著名人の話を聴くまではやりたいことをやるためには2つしか選択肢がないと思ってました。1つはやりたいことをやるために、違う何かをする。さっきの役者志望の若者みたいに役者がしたいからバイトを掛け持ちしてでもやれる道があるなら、やるというスタンス。もう1つはやれるかもしれない環境に身を置いてある程度耐える。所属できる事務所がある、稽古する場があるなら仕事や役がもらえなくてもそこにしがみついて何でもやって、チャンスが来るのを待つ。どちらかしかないと思ってました。(イシイ自身は前者を選んだ。)

それか偉くなる!!あ、あれは正しいことをしたければ、でしたね(爆笑)

でもあの場合、青島のやりたいこと=正しいこと、だと思うので。ん?踊る○捜査○の和久さんの名台詞でした。

やりたいことをやるには、自由にやるには、ある程度の我慢も必要だと言ってました。そして絶対やってやるんだという強い意志、周りを圧倒的に納得させる実力を身につけろ、と。破天荒だ、型破りだと言われて来たけど、嫌なことも我慢して基礎を学んでその上で自分らしさ、自由に、好きなことをするから『型破り』なんだと。その基礎もなしにやりたいようにやってやるぜー、は『型なし』だと言われた、とも言ってました。そしてどうやってこの地位まで上り詰めたのか、と聞かれて答えた言葉は。別に特別なことはしていない。ただ目の前のことをコツコツと真面目に一生懸命に取り組んできただけのこと。それをたまたま誰かが見ていてくれた。それだけのことだ、と。

やりたいことが出来ない!という人に限って、目の前のことや当たり前のことを軽視してる気がしました。だって多分、コツコツやってる人は『やりたいことが出来ない!』なんて言わず、その先の未来しか見据えてない気がしたんですよね。イシイとしてもちょっと耳が痛い話しではありました(笑)いちばん最後にお仕事させて頂いたフィットネスジムでのことです。やりたいこと、出来なかったんです(笑)それに加えて、勤務時間の9割が掃除でした。いや、大切な業務なのはわかってる。わかってるし、蔑ろにして来たつもりもない。でも…勤務時間の9割が掃除は…我慢出来ませんでした(笑)何様やねん!とツッコミ入れらそうだけど…アタシでなくてもええやん、この仕事、と思ってしまいました…。その他、ちょこちょこありますが、これがいちばんかな。それは、置いといて。

目の前のことにコツコツ努力する。それがやりたいことだったり夢見た未来に直接繋がるかどうかなんて確約もないのに、努力する。それって当たり前のようでものすごく難しいことだと思う。何の努力もなしにぽんっと一躍有名になったとしても、そこから努力しなければあっという間に居場所もなくなるだろうし、誰からも見向きもされなくなる。。

何からコツコツしたらいいのかさえ、ちょっと見失いかけてますが。目についたもの気になったものからコツコツ取り込んでいけるよう、頑張ってみようと思えた日曜日の夜でした。

信じるって、さ。

『信じる』って言葉。どんな時に使いますか?

また最近使いましたか?それはいつ?どんな時、誰に使ったか覚えてますか?

先日、とある映画の完成報告イベントで主演を務めた愛菜ちゃんが『信じる』ということについて語り、かなり称賛されていました。若干16歳。頭もよく感受性も豊かなんだろうなぁと思わずにいられないコメントでした。

そこで出た『信じようと思う』っていう言葉の意味について。イシイは愛菜ちゃんの倍近く歳食ってますが(笑)ほぼほぼ愛菜ちゃんと同じ考えの境地には辿り着いてました。その人自身を信じているんじゃなくて、『自分が理想とする、その人のイメージ(愛菜ちゃんは人物像、と言ってました)みたいなものに期待してしまっている』ことなのかな、と。いつのまにかその人に自分の都合のいいように勝手にフィルターをかけて見てしまって、勝手に理想像を重ねて期待されて…重ねられた方は、いい迷惑よね(笑)

勝手な理想は、理想通りだったり期待以上だと喜ばれる。逆にその理想にそぐわなければ『こんな人だと思わなかった』と失望したり、されたり。

愛菜ちゃんの言葉は続く。

" だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思った"

本当に16歳デスカあなた( ˉ ⌓ ˉ ๑)

それだけ、いろんな人を見ていろんな人に見られてきて想像もつかないくらいの苦労をしてきたんだろうなと思う。

そうなのだ。愛菜ちゃんの言うようにその人が裏切ったとかいうわけではなく、勝手にかけていたフィルターがその人のその部分を隠してしまっていただけに過ぎない。その見えなかった部分もまたその人であることに変わりはない。

そこも含めてその人を受け入れたいところだけど、『思ってたんと違う!!』となるとなかなか人間難しいですよね。。どんな一面を見ても自分は信じる!なんていう揺るぎない自分を持つのもまた難しいもの。。愛菜ちゃんも、そう言ってました。だからこそ人は『信じる』と口に出して、不安を払拭して自分の思った通りの人であって欲しい…って願望なんでしょうね。

不安なことがあったら何かにすがりたいし、信じたい、信じようって思いたくなる。でもそれって、逆効果で理想と違った時に大きなショックを与えることになる。

こうあって欲しいっていう自分の理想像に近づくほど、どんな人や状況に対峙しても、まずは理解しようとする。常にその準備はしておくべきなんだよね。拒絶しちゃいけない。見ないフリをしてもいけない。一度信じたものは…どんなことがあっても、たとえ思ってたんと違う!現実が目の前に現れても、、受け止めるのが"信じる"ということの責任なのかなぁ…、なんて。とか言って、あーもう!信じてたのに!!とか腹を立てることがあるのは…ご愛嬌💦💦

『信じよう』と思ったことは何があっても受け止める"揺るぎない自分"を持つ。逆に『信じたい』はまだちょっと揺らいでる証拠かもな。

いずれにせよ。信じるって言葉は、自分の中だけのもの。人に宣言するもんじゃない。そして信じるって、、苦しい。信じる、なんて感情を持ち合わせてなかったらもっと楽に生きられるかもしれないのにな、なんても思うのです。

ついでに愛菜ちゃんのインタビューをシェア。

https://youtu.be/jjgzltx_EX8

 

自由。

"尽きせぬ自由は

がんじがらめの不自由さの中にある"

これだけで誰の歌かわかった貴方は仲良くなれるかもしれません(笑)

最近、いやずっと自分の心の中には『自由には責任がついてまわる』という言葉がありました。18年間、好きなことを仕事にしてそれなりに自由に暮らしてきたと思ってます。それでも自由に好きなことをするっていうのはそれなりに責任がついてまわり、好きだからこその苦労ももちろんある。その覚悟がないならするべきではない、という意味でずっと自分の中に君臨し続けた言葉でした。

人間、圧迫されて押しつけられて選択肢のない中にいると当然自由が恋しくなる。恋しくなるばかりか現状に不満が募りストレスを感じる。悪循環で良いことなんてないように思える。

ところがそれだけ恋しかった自由を手に入れると人は途端に堕落するか強欲になる。良い意味で欲張られれば良いけれど、大抵の場合、自分に都合のいいように自由を求め始める傾向があるように思える。

水も温度も電気も、高い方から低い方へ流れるように人間、楽な方や緩い方へはすぐに流されてしまう。そこで己を律することはなかなか難しいことなのかもしれないけど、、そうやって得た自由は尊いものではなくなる気がします。

今の世の中、ググっちゃうといろいろ教えてくれるわけです。自由と責任について調べてみたら面白かった。根本的に自由には責任がついてまわる、というよりも責任が取れれば何をしてもいいのか、という考え方を見てなるほど、と思わされた。捕まる覚悟があるなら犯罪を犯すことは自由か、それは違う。となると覚悟と責任だけの問題ではなくなってくる、と。

自由とともに権利や、ルール、責任とそれぞれが単独で存在することはなく、共存している。

そう考えてみると、狭義の自由はあれど本質的には不自由な中で人生を楽しんでいる、ということになるのでは?と。そもそも責任が伴う自由=他者が決めた範囲であれば自由。というなら、ある意味では誰かの自由は誰かの不自由である、ということでは?完全なる自由、とは三次元では起こり得ないことなのかな、とか思考回路がショートしかけてきた。

完全なる自由なんてない。誰かの決めた範囲の中でどれだけの自由を勝ち得るかは個人の心掛け一つなのかもしれない。

尽きせぬ自由は、がんじがらめの不自由さの中にある。

 

適量。

スピリチュアル的なもの、好きです。

占いも、まぁまぁ好き。

某番組のロケとか出くわしてみたいけど、占われる側としては誰に占ってもらうかは選びたいところ(笑)そんな数いる占い師と言われる方々の中でも好きなのがし○た○さん。

きっかけは占いでしたが、note.を読み始めてからは彼の紡ぐ言葉に魅せられました。

特に面白いなと思ったのが『尽くすの適量』と『他人との距離感』について。

イシイあるある(笑)だけど『あなたの依頼だったら!』と腕まくりをしたくなる案件や、自分が好きな相手から頼み事をされることはすごく嬉しい。頼りにされている、必要とされてるのが実感できるから。

でも、ここで気をつけなければいけないのは尽力する『量』。これを間違えてしまうと相手が『やってもらって当たり前』という感じになってしまいがち。さらには相手から寄せられる感謝の気持ちなどが薄れていってしまったり、逆にこちら側が『こんなにやってるのに』と思い始めたら、、適量ではなくなってしまう。

どちらかというとイシイは、注ぐ愛情が(良くも悪くも)過度になりがちなので気をつけないといけないのですが…。良い関係って、なんでしょう。お互いを頼りにしながら長続きする関係ってどんな関係でしょう。

し○た○さん曰く、『お互いを通じて“勝手に”自分の夢を見られる関係』である、と。

『この人が目指している夢を応援したい。そして、この人の目線の高さを近くで学んでいると、私自身がもっと色々なことにチャレンジしたくなる』。確かに確かに!わかるわかる。選手はイシイにとって、イシイの知っている世界を良い意味で利用しようとしてくれようとしてくれる人でありその姿がイシイにとってももっと学ぼう!という活力になる。その積み重ねがこの人なら、この人に、という信頼関係にも繋がるのかな、と。そこには自然と『お互いに対するリスペクト』が存在する。それが常に、お互いが出来ているのがいい距離感であり、尽くす適量である、と。

だから、でしょうか。

簡単に○○教えてよ!とかタダでやってくれない?感が溢れてる依頼や人に距離を取りたくなるのは(笑)プライスレスにはリスペクトがつきものかなと思います。でなければタダより怖いものはない、もしくはそれっきりの縁かな。人との距離感を学べない(感じられない)人とはいいお付き合い出来ませんもんねー。相手からもそう思われないように気をつけたいものです。

きっかけ。

突然ですが、健康って何だと思いますか?

どこも痛くないこと、医者にかかってないこと、薬を飲んでいないこと、健康診断の評価に問題がないこと。そんなところでしょうか。それは、身体の健康。

多少の心配ごとや悩みはあれど充実した毎日を過ごせてる。これは心の健康。

よく、心身ともに健康にって言われるようにどちらかが欠けても健康じゃない気がします。ただ、、身体の健康って人それぞれで、多少痛いところがあったり不自由なところがあっても心が元気なら健康なのかなって思ったりもします。実際、イシイは片方耳が不自由で全くと言って良いほど聞こえません。多少の不便と苦労はあるけど…至って健康です。あ、血圧も低すぎるほど低いけど、朝起きられるし元気です。

だからもしかしたら、心が元気じゃない方が色々問題をきたして来るのかなぁ、なんて。イシイはカウンセラーでもメンタルトレーナーでもないけど、身体を動かしたり、筋肉をほぐしたりすることで元気になってもらえたらな、という気持ちはあります。

一括りに『健康』って言っても漠然とし過ぎてるけど、生きてく上で大切なことだと思ってます。お金で買えるようで、買えないもの。薬や治療、身体に良いとされるものはお金で買えるけど、それを取り入れる身体は生きてる限り自分でメンテナンスをしなければ長持ちはしないと思うんです。

日本のフィットネスクラブへ参加している割合は人口に対して約4%と言われていて先進国の中でもダントツに低い。

かつて大手のフィットネスクラブに勤務もしていたイシイですが、、通える人って、やっぱりほんの一部なんだと思う。もちろん通わずとも運動出来る人もいるだろうし、運動しなきゃな、と思いつつ行動に移せない人もいるはず。別に運動しなくたっていいもん、と開き直って謳歌してる人だっていると思う。

何が言いたいかっていうと。

人間が生きてる限り、一日中横たわっていようが筋肉が心臓を動かす。筋肉が動けばカロリーは消費されるからお腹は空く。。昏睡状態ではなく、意識がある状態なら美味しいものや好きなものが食べたいと思うはず。どこそこの○○が食べたい、とか観に行きたい、とか。最低限自分の身体をコントロールして動かせるだけの筋力があれば人生は如何様にも楽しめると思うのです。ピンピンコロリ、じゃないけどおトイレに行くことだって健康でなければ誰かの手を借りなければならない。せめてそんな状況って、、最後の最後でありたいと思うんです。自分の身体は自分で守る。それって、何も難しいことじゃなくて、日々ちょっとしたことを気をつけたり、頑張ったりすることの積み重ねで得られるものじゃないかなと。

運動不足だと感じるならそれを解消するお手伝いを、昔みたいにとは言わずともちょっと痩せたいな、とかマラソンなんてやったことないけど走れたら楽しそう、今からでも出来るかな?とか。そんなささやかな願いを叶えるお手伝いがしたい。

イシイは専門学校卒業して18年。18年分、日本中でトレーナーになりたい人が世に出て、フィットネスクラブ乱立時代。世の中にトレーナーと名のつく人達は溢れてる。けど、フィットネスクラブに行かなきゃ出会えない、だけでは飽和状態だと思う。フィットネスクラブに通うことが、すべてではない。自分でやれる範囲でやりたい人、まだフィットネスクラブに通うとかそんなモチベーションじゃないけど…という人。そんな人のステップアップのきっかけをつくれないかなぁ、と思ってるわけです。その先に、もっと動きたい!と思ってフィットネスクラブに通うもよし。もっとやってみたい、とパーソナルトレーナーをつけるもよし。その、足掛かりになりたいのです。

そんなサービスを模索してます。

乞うご期待です。