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俺が悪いんだ とあなたは言う
あなたはきっと悪くない とわたしは思う
どちらも正しいかもしれないし
どちらかが、あるいはどちらも間違っているかもしれない
それはわたしたちではきっと答えは出せない
あなたが"悪い"と思う対象がわたしではないから、わたしたちでは答えは出せない
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" 正論 "は大概にして多くの人が正しい、もしくはそういうもんなんだろうと頭ではわかっている。それが守らなければならない(守った方がいいであろう、大方、遵守されるものと認識されている)ルールや規律なら、それが守れなかった時に、自身では多少なりとも" やってしまったな "と焦ったり自身の言動を後悔したりすると思う。と同時に "○○じゃなかったら"、とか "△△だったから" など、到底他人に理解されないだろうと思って口に出さなかったとしても当人なりの理由があるんだと思う。
正論とは。
道理を説く論について正しいものであると評価する呼び方である、とWikipediaに記載されている。道理にかなうとは "自分自身で納得できる" ことを指す。つまり、正論を受け入れられないのは、言われたことに対して納得はしているけれど受け入れることができない状態をいう。
ひとつのチーム、組織に居れば良くも悪くもそこにおける "正論" はあるわけで。
それを理解している、受け入れてるであろうという暗黙の了解のもとに成り立っている。
とはいえ、チームも組織も人間で構成された生き物なのだ。何がきっかけで、どこでどう、人の気持ちが変わるかなんて誰にもわからない。変わった本人ですらわからないかもしれない。
正論だけで人を縛り付けるのは無理だ。むしろ正論でしか結びついていないチームや組織があるならばそれは非常に魅力がない。
温度差はあれどそれぞれ愛着や帰属意識があって、朧げでも同じ方向を向いて力を合わせようと、手を取り合う。同じ熱量であれば居心地も良く、目指すべきものに向かって切磋琢磨し合い努力するだろう。ところがこの熱量に大きな差があれば不満も溜まり衝突も起こだろう。そしてその時に各々の"正論"が牙を剥く。
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俺が悪いんだ とあなたは言う
いや、わたしたちが悪かったのかもしれないと
わたしは思う
いや、どちらも悪くないかもしれない
これだけ寄り添ってきたけど
わかりあえなかったと思うしかない
じゃあ、どうしたらよかったんだろうね。
わたしとあなたの思いは同じだから
もしもあなたとわたしだけになったら、そのときは考えよう。
今はちょっと苦しいけれど
"そんな時代もあったね" といつかきっと笑える日が来ると信じて耐えよう。
わたしはあなたに
" あなたは悪くない "と言い続ける。