Monologue〜フィジコISHIIの熱苦しい独り言〜

フィジカルパフォーマンストレーナーのイシイです。仕事のこと思ってること熱苦しく呟きます。

所詮は、価値観。

10人いれば10通りの夢がある、と前回も書いたようにたとえ同じチーム、職場にいたとしても価値観というのは人それぞれ異なる。似たようなもの、全く違うもの…それこそ10人いれば10通りの価値観や考え方がある。それでも妥協点を探ったりしながら同じ場所にいる。それが苦痛な人は居心地のいい場所を求めて去っていく。性格も価値観もばらばらな人間同士がどうして"そこ"で出会うのか。考えてみればものすごく不思議なことだと思う。

 

そもそも同じ価値観の人間しかいなければ争いは起きないのだろうか。平和で穏やかな世界になるのだろうか…とまぁ、そんな飛躍した仮説は置いといて(笑)チームに置き換えよう。勝利が共通認識だとしても、"チームのために"プレーする人間もいればその想いは持ちつつもやっぱり自分が活躍したい、と思う人間もいる。試合に出られなくてもチームのため、勝利のためと働く人間もいる。目指すゴールは同じでも思い描き方の違いは価値観の相違だと思う。

 

同じ目標に向かって苦楽を共にするうちに、何となくみんな同じ考え(価値観)だと錯覚しがちだと前回も書いた。どうして錯覚するのか。想いは、目に見えないから。有形じゃないから。どのくらいの熱量でどのくらい真剣に取り組んでるか、ゲームのように数値化して誰もが見れたら錯覚することはないし、無駄に期待することもない。見えないから錯覚もするし期待もする。自分の都合のいいように。

 

 

最初から"ない"とわかってるものと、

"ある"(あった、あると思った)から"ない"に転じたものとの差が大きい。

最初から"ない"とわかってるものに関しては何とも感じない(そこでもがき得ようと努力するか否かは価値観と熱量)のに、"あると勝手に思い込んでいた)" が "ない"に転じると、どん底に突き落とされたような気分になるから不思議だ。誰かに『あるよ』と言われたのなら騙された!と怒りや悔しさ湧いてくるだろうけど、これがもし"ある"と自分が勝手に期待して信じて疑わなかった場合は、勝手な思い込みに過ぎないのにショックが大きかったりする。

 

 

人と人との出会いは単なる偶然ではないとは思う。それぞれが、それぞれの場所でいろんな想いを経験し、選択してきた結果が今。

全く同じ価値観じゃなくても同じような価値観に従って選択してきた結果、今ここで出会ったわけで。そもそも全く違う価値観であれば出会わなかったかもしれないし、もし出会ったとしても居心地の悪さに長くは居られないかもしれないし、何かのきっかけで考えが変わってそこに留まりたいと思うかもしれない。そう考えると、全てはその人に必要なことで偶然でも何でもないのかなぁ、なんて。

 

 

今この瞬間は、今までの自分の選択の結果であって正解でも間違いでもなく…どう捉えて、どう進むかなのかなと。

 

育ってきた環境も価値観もみんなそれぞれだとわかっているのに、同じ場所にいたり、同じ方向を目指す仲間にはどうも勝手に期待したり錯覚してしまいガチで無駄に傷つくことも多い。ハナから"ない"と思っていればそれがいざ"あった"ときはとてつもなく嬉しいだろうに、なかなか初めから"ない"という選択を出来ないワタシは学習能力がないのか、ただのお人好しなのか(笑)傷付くことには慣れている。でも常にマイナスな感情から始めたくないのだ。だから常にかすり傷や痣を全身につくりながら生きるしかない。わかっているから周りに八つ当たりしないように生きたいと常々思うのです。

 

 

某ドラマの再放送を観ながら、そんなことを思った(笑)最近はドラマや映画について"反省会"と銘打って、面白くないとかありえない、がっかりしたなんて投稿が飛び交ったりもしてるようだけど。どんな作品にも教わること、感じることってあるもんだと思う。誰かが想いを込めてつくったものなんだから、ないわけがない。だからね、所詮価値観なのよ(笑)