Monologue〜フィジコISHIIの熱苦しい独り言〜

フィジカルパフォーマンストレーナーのイシイです。仕事のこと思ってること熱苦しく呟きます。

ワタシの価値。

自己肯定感の低さと承認欲求の強さって、比例するらしい。

うわ、ヤバいなと思った。

アタシは自己肯定感がわりと低い。最近は以前ほどではないけど承認欲求も強い方だと思う。

人と比較して得られた自信は脆くて、壊れやすい。世の中、上には上がいる。そんなのもうまざまざと思い知ってる(自分がそんな優れた人間だと思い上がってたわけではないけど)。自分に自信がなくなると頑張った自分や努力してきた自分を認めるよりも、結果や他からの評価の方が気になる。他人の目なんか気にせず『アタシはアタシ』って心の底から堂々と出来れば、なんてことない些細な一言や不本意なことを言われても、反論したりせずに受け入れられるんだろうな。

『有料級の無料情報』は世の中吐いて腐るほど溢れてる。そしてどちらかと言えば限りなく有料級に近いサービス品(無料もしくはお買い得)。それが自分かな、と自嘲気味に思う。

誰だってお手頃価格やご厚意で欲しいものが手に入れば嬉しいし有難い(そこには"敬意"や"誠意"のあるwin-winが成立していて欲しい…と思うのはこちら側のエゴなのか😅)

無償も有償にも、価格には意味がある。

ぼったくりでない限り、『受け取る』という意思のもと受け取るから、それがその人にとっても提供側にとっても価値あるモノとして成立する。つまり受け手側の意思次第なのかな、と。

どんなに価値のあるものを提供しても、『無料程度の価値』(たとえ無意識下であっても)と思われかねない。そうなると、価値は価値でなくなり、提供側と受け手側とには溝が生じる。

欲しても手に入って喉元過ぎたら、すぐに忘れ去られてしまう…いや、全てがそんなわけではないし、価格に関わらず大切に扱ってくれる人ももちろんいる。

さて、自己肯定感低めのワタシ。

ワタシの価値っていくら?と思うこともしばしば。車のようにお宝鑑定団のように、査定してもらえるものならしてもらいたい。自分の価値を自分で決められないワタシの卑怯な部分かもしれない。だから仕事を受ける時は依頼先の方から料金を提示された方が有難い。このくらいか、と思うこともあればこんなに!と思うことも。全てが価格=自分の評価でないにしろ、それは客観的なわかりやすい評価であることに変わりはない。いずれにせよ全力で取り組むことに変わりはない。ただいくら高額を積まれてもやりたくないと思うものはやらない…というポリシーは、持ち合わせてる😛

昨日、『自分は時給いくら貰える価値があると思う?』と聞かれてすぐに言えなかった。アタシの価値って、いくらなんだろう…。

月収、年収。いくら稼ぎたいって野望がない。それがダメなところなのかもしれないけど、考えたことがなかった😅あったらあっただけいいのかもしれないけど、リアルにいくらって考えたことなかった。それなら時給で考えてみたらどう?いくら?と提案されたわけ。本音と建前がぐるぐるしたよね(笑)

ワタシのトレーナーとしての存在が誰かにとって有料のどれだけの価値があるのかなんて、

わからない。というか決められない。受け取って(必要として)くれる人がいて、そしてその人にしかわからないことでその人の価値観次第。

一緒にやらない?と一緒に頑張ろう、と声を掛けてくれるのもまた、pricelessなワタシの価値。アタシが提供するものは『ワタシにとってとても大事で相手にも同じような気持ちで大切に受け取ってもらいたいもの』。

受け取る価値は人それぞれだけど、渡す人は選びたい。ワタシにとって大切なものだから。価値に見合った価格、対応をしてくれる人と仕事がしたいし、受け取ってもらいたい。

だから、『ワタシにはこれくらいの価値はある』と内に秘めて他からの評価ばかりに囚われず求めず堂々と前を向こう、と思うのデス。