Monologue〜フィジコISHIIの熱苦しい独り言〜

フィジカルパフォーマンストレーナーのイシイです。仕事のこと思ってること熱苦しく呟きます。

進むために、振り返る。③

【番外編・就職活動】

2年間の専門学校生活はあっという間に終わりました。

1年生の時の国体での経験で『絶対トレーナーになる!!』と決めたイシイは

2年生の5月ごろに一度だけ就職試験を受けます。それも一般企業の。

トレーナーになる!と決めたもののじゃあどうやって、どこでトレーナーになろう?と考えた。その時すでにフィットネスクラブという考えは全くなく。今よりもパーソナルトレーナーなんて言葉は出回ってなかったので、フィットネスクラブの仕事をしながらトレーナーをする、というのはどちらも中途半端になると考えていたから。

一般企業…かなり大手です。言ってしまいましょう(笑)

JRです。

当時プロ野球選手を輩出するぐらいの強豪社会人チーム。

一社員として入社してスタッフとして(マネでも何でも‼)と思っていたのを担任に話したんでしょうね、きっと…担任の先生が受験要項を持ってきてくれたんです。当時は…多分、今みたいなエントリー?とかなかったと思うんですよ。やったことないし。どうやって応募したのかもよく覚えてないけど、仙台支社に一次の筆記試験、受けに行きました。クレペリン検査?あれが大変だった…。頭から湯気出そうになりながら解いたのを覚えてます(笑)元進学校の意地、一次をパスして二次の集団面接へコマを進めます。6人?くらいだったかなぁ…大学、公務員ビジネス系専門学校の方々だったと思う。イシイ、かなり異色なスポーツ系専門学校。その異色を裏切らない発言をします。

『ウチを希望した理由を教えてください』

『御社の野球部のトレーナーになって都市対抗野球で全国優勝したいです!』

面接官のみならず、受験者の皆さまからも視線を集めたことは言うまでもない…。

面接官は確か2名?だったかな。お一人は冷ややかでしたが、もう一人はご自分の場所に野球部の選手がいたらしく、笑顔でお話しくださいましたが。結果、ここで終了。いやいや通過した方がびびる。

そんなこんながあって、もう就職試験は諦めたイシイが次に取った行動は。

調べられる限りの全国の社会人スポーツチームに手紙を書きまくりました。メールじゃなくて…手紙、ね(笑)ジャンル問わず、もう出せるところ(HPとか情報があるチーム)に100通近く書きました。いちばん遠くで岡山だったかな。もう、どこでもよかった。トレーナーとしてチームに就かせてもらえる(もしくは勉強させてもらえる)ならどこでも良かった。

そんなイシイに2つのチームから返事が来るという奇跡。2つとも当時の2部のトップチームの男子バレーボールチーム。神奈川と愛知でした。2つとも会社に就職を斡旋することは出来ないがチームとしては大歓迎だと。住むところと仕事を見つけて来てくれるなら、とのこと。神奈川の方は練習も観に行きました。もう、神奈川に行く気満々でした。

ところが。

実習先でお世話になった監督さんからひょんなことからご連絡をいただき、卒業後の進路について尋ねられ。経緯を話して神奈川に行こうと思うと伝えたところ、そんなリスク(住むところも仕事も、そして見知らぬ土地)を背負って挑戦しなくても、こっちで(宮城)で紹介するよ、と言っていただけたのです!もう寝耳に水。

某企業チームと、大学の男子部をご紹介頂き…色々なしがらみもあり、一人で決められず。今も師と仰ぐ恩師に正直に昨年の国体後からここに至るまで全てを話して…大学の男子部を紹介してもらうことに。

あの時企業を選んでいたら、なんてタラレバは考えたことはありません。確かに、今とは全く違う人生を送っていたかもしれない…そう考えると、人生は選択の連続で大きな決断だったり、苦しい決断を迫られることも多々あるけれど、、しっかり考えて選択しないとな、と思う。ただ、選んだ方が正しかったかどうかなんてことはその後の自分の努力次第だと思う。こっちを選んで良かった!と思える人生にしたい。あの時。大学を選んでいたから繋がって繋がって、今がある。いい経験させてもらったんです、このチームでも。約5年間携わらせて頂いて、2年ほど前からまた少しお手伝いをする機会をもらってます。

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人と人との繋がり、ご縁。

値段なんてつけられないしどこにも売ってない。思えばずっと、人と人との繋がりで色んなチームに関わることが出来ました。フリーランスとしてひとりだけど、ひとりの力じゃない。そのことは自分がよくわかっています。

今度は後輩たちのためにそんなご縁を繋ぐことが出来たら、ある意味恩返しになるのかな…なんて思ってます。

【続く】