今日は雨降りな福島。
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昨日の立秋に、神社へ行ったら七夕飾り。
ああそうか。七夕は秋の季語だったな、なんて思い出してちょっと不思議な気持ちになる(笑)
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突然ですが。
自分のこと、好きか嫌いかって言われたら…答えられますか?
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どっちかっていうと、ワタシは自分が嫌いです。よく"自分のこと嫌いな人間が他人に好かれるはずがない"なんて耳にするけど…、めちゃくちゃ好かれてもいないしめちゃくちゃ嫌われてもいない、ふつーのだと思う。
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例えば。
一人では取れないけど、数人で協力すれば取れるすごく美味しいフルーツがあるとする。
その味を知ってるあなたは、どうしても食べたくなって、仲間を募る。
同じくその美味しいと言われるフルーツを食べたいと思う人、自分が食べたいかどうかはさておき"あなた"に協力しようと思う人も仲間に手をあげるかもしれない。
ここでいう共通の目的は『フルーツを手に入れる』ということ。そのためにみんなが力を合わせるわけだけど、どのくらいそれが食べたいかによって熱の入り方って変わってくると思いません?
めっちゃくちゃ食べたいあなた。あ、食べてみたいなーって興味本位で協力しようとしたけど、手間暇かかるんなら別に良いかな、とちょっと諦めモードの人も出てくるかもしれない。
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まぁ、何が言いたいかって言うと。
同じ目標があっても熱量の差は否めないよね、、そしてその差は環境の差ってことです。
ワタシはどっちかっていうとめちゃくちゃそのフルーツ食べたい派、というよりめっちゃそのフルーツ食べたい!って必死になってる人たちの力になりたい人。自分が直接食べられなくても、幸せな顔して食べてるところを見て、幸せな気持ちになれる人。少々、いやだいぶ変人だと思います(爆笑)いいんです。
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そんな自分は嫌いじゃない、けど。
どうせ尽力するなら本気で食べたいと思ってる人たちの力になりたい。そのためなら踏み台にでもなんにでもなるのに。。カンタンに食べられると思ってない?もしかしてそんなに食べたいとも思ってなかったりする?そんな疑心暗鬼になる自分が、嫌い。
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食べるか、食べなくてもいいのか。はたまた別のフルーツでもいいのか。。
選択肢があって、それを選ぶことが出来るって当たり前なのかもしれないけど。それが当たり前なら真剣に考えて欲しい。選べるという自由には責任というオプションがあることを忘れないで欲しい。その責任に見合ったフルーツを探せばいい。自分ではフルーツを取りに行くことすら出来ないのに、おこぼれで食べさせてもらった味が忘れられなくてどうしても食べさせてあげたい…。それでイライラしてるなんてアホくさい。勘違いしてるだけなのかな、なんて思うのも腹が立つ。。結構ね、面倒くさい人間だなと思うのです(笑)だから、どっちかっていうと…、、I hate mysel。