Monologue〜フィジコISHIIの熱苦しい独り言〜

フィジカルパフォーマンストレーナーのイシイです。仕事のこと思ってること熱苦しく呟きます。

Continue,とは。

"続ける"ということについて。

どんなことであれ、続く、続けるということは安易なことではない(どう続けていくかにも当然よるけれど)と思う。

だから何かを長く続けられる人は"続ける"才能に長けているんだと思う。

 

 

①何気なく(大した努力もなく)続いていること

②辞められなくて(この場合は多少の不本意もある)続けてること

③好きで続けたくて続けていること

どれも続いてることに変わりはないが中身はだいぶ違う。

①は習慣化されているものが多かったりするのではないだろうか。

②は自分が始めたことではなく誰かから引き継いだ事柄であったり頼まれたことの割合が大きいかなと。いやいや引き受けたではないにしろ、多少なりとも不満や犠牲を払いながらも続けるようなこと、かな。

③なんかは趣味そのものだろう。好きで好きで時間やお金を費やしてでも続けたいような、自分が好きで仕方ないこと。

 


どう続けていくのか、いつまで続けるのか、どうして続けるのか。上記のようにコトと場合によって変わってくる。何か見返りがあるから我慢して続ける、なんてこともあり得る。それはむしろ"続けること"よりも"存続"させることにのみフォーカスされてる気もするけれど、それも致し方ないこともあるのかもしれない。

 

 

続けることがツラいなら、辞めればいい。

本来、続けるか続けないかなんて自分が決めていいはずだ。だから続けることがツラくて、続けることに何の意味もないなら時間や労力の無駄だから辞めればいい。辞めたら、楽になる。辞める決断をするのも苦しいなんてことは多々ある。ただ、辞めてしまえば終わる。今まで苦しかったのは、悩んでいたのは何だったのかってくらい呆気なく…物足りなさを感じてしまうかもしれないくらい、呆気なく終わる。

だから、"続け方"も"終わり方"もどっちも大事だと思うわけで。続けるのも終わりにするのも自分が決めて、後悔のないようにしてほしい。続けたくても続けられないことだって世の中にはある。続けるか終わりにするかの決断を自分で下せることはシアワセなことだ。だからこそ、その決断には責任と覚悟がもれなくつきまとう、とも思う。責任や覚悟だけで継続しなくてはいけない時もあるかもしれない。その役割を担った人がいて、今があるのかもしれない。

 

事によっては終わりにすることよりも続けることの方が背負い込む責任と覚悟は大きいかもしれない。

 

渡されたものは最低限、現状維持。

渡すならより良いものにして託したい。

託された人が要らぬ苦労を背負うことなく気持ちよく続けられるように。

自分にできることが最低限の"継続"であったとしても。もしもそれが自分にしか出来ることなら、引き受ける。引き継がれて脈々と繋がってくものと、途中で自然消滅なり断絶なりでなくなっていくものの違いって、実は紙一重なんじゃないかな、なんて。辞めたり無くしてしまうのはカンタンだから。

 


負けたら終わりじゃなくて

やめたら終わりなんだよね
どんな夢でもかなえる魔法

それは続けること
苦しみ 悲しみ その先見える光 自分の道
ずっとずっとコンティニュー

 

 

Continue,とは。

柵も情熱も様々な人間模様が複雑に絡まった結晶なんだろうな。

透明人間、現る。

遡ることふた昔ほど前。

 

アタシは透明人間でした(笑)自ら望んでなったわけではないけれど。

確かにそこにいるのに、そこにいないのも同然で、ただただ黙ってギャラリーで練習を見て、終わったら帰る。その、繰り返し。

何のために来てるのかなんて考えたら負けだと思った。感情を殺して、ただ彼らがもしも困ったときに何か力になる(…そのもしもはほぼ無いに等しかったけれど)。

 

 

そのチームで2年目のことだった。

最上級生が同い年になり、前年以上に絆も深まって、もっと力になれるはず…なんて思って期待に胸を膨らませていたのに。それは妄想に過ぎなかった。彼らにとってアタシはまるっきり居ても居なくても変わらない、透明人間のような存在だった。試合の時こそベンチに入るものの、これと言って何をするでもなく下級生とともに雑用をこなす。トレーナーとしての存在価値など微塵もなかった。2年目、そんなもんなのかもしれない。1年目が上手くいき過ぎただけだったのかもしれない。卒業してすぐフリーランスで始めたアタシにとってこの2年目の試練はとてつもなくしんどかった。

そのシーズンは春と秋のリーグ戦はおろか、冬のインカレの戦績も含めてシーズンの全て何一つ記憶に残ってないっていう(笑)

翌年は打って変わってものすごくやりやすくて一生懸命で。なのになかなか勝てないっていうヤキモキしたシーズンだった。

その年の後輩たちの試合を観にきた”去年の選手”の一人に、珍しく声を掛けられた。
彼から掛けられた言葉は意外なもので。
もうそんな明確には覚えてないけど、あの頃は悪かった、今ならあの頃の有り難みがわかる、そんなニュアンスの言葉だった。
ああ、アタシのあの一年は無駄じゃなかった。
諦めなくて良かった。透明人間でも行き続けて良かった…そう思ったのもつかの間、違う考えが顔をのぞかせた。認めてもらえなくても頼りにされなくても。もしも何かあったときにその場に居なかったら絶対に自分が後悔する。意地の核心は間違いなくコレ。彼らのためという大義名分のもとに、実は誰のためでもなくいちばんは自分のためだったんじゃないか…って。意地だった。意地だったけど、何か彼らが困ったその時は、透明人間だったことは水に流して迷うことなく手を差し伸べよう、それが自分の使命だと。透明人間であることに耐え切れず感情のままにその場から去ったり、足を運ぶ頻度を減らしたりしても誰にもきっと咎められることはなかったとは思う。でも、立ち去ることもしなかったし頻度が減ることもなかったし、誰にも愚痴もこぼさなかった…あ。(いや、これは単にこぼせる相手がいなかったってだけ)

何が正解で何が間違いなのかはわからない。
けれど彼の一言であの頃の自分が一瞬救われたことは間違いなかった。
熱意はどんなに時間がかかったとしても必ず、誰か一人にだったとしても伝わるんだ…確かにそう思えた。

 

 

とある選手から、全選手の前で全否定されたことがある。
悔しかったけど正面から全て受け止めた。彼がそう思うのなら仕方がない、と。
それはボタンの掛け違いといえば聞こえはいいけれど私と彼は分かり合えなかったということ。彼の信頼を得ることが出来なかった、それだけのこと。目指す方向は同じだったけど、受け入れてもらえなかった。ただそれだけのこと。
私にだって言い分はある。あった。でも選手ファーストだと思っているし、当時の監督も私には非はない、と仰ってくだっさていた。それでも信頼関係が破綻しているならい続けるべきではない…。その日を最後に私はそのチームから身を引かせてもらった。
当の本人から数年後、何事もなかったかのようにSNSで絡みがあった時は驚いた。あの日、悔しさと悲しさでボロボロ泣きながら帰った私の涙を返せ――――ッ!!!!(笑)なんて。そんなことを今の今まで覚えてる執念深さ…嫌な性格ね(笑)

 

 

閑話休題
どんなに傷付いても苦しくても、絶対に自分から炎は消さないと言い聞かせてる。外からは消えたように見えてもいい。誰かに消そうと水をかけられたりしたとしても、じっと耐えて燻りながら燃やし続ける。消すなら自分で。消すのは辞めるとき。透明人間になってもそこに居続けるのはどんなにつらくても今火を消す覚悟が出来ていない証拠、だと思うのです。透明人間になっても、炎は消すな!なんてな。

 

 

あるべき姿。

Blogとはどうあるべきなんでしょう。

こんなこと言ってる時点でダメなんだけど(笑)最初の頃は仕事のスケジュールやイベント情報なんかも載せて、仕事に繋がれはという想いもあった。イシイという為人を知ってもらえたら。それがいつしか、好きなことを自分の言葉で誰も傷つけないように自分の想いをただただぶつけてもいい場所。そのカラーが濃くなったように思う。

これを読んでくれている人の中には知っている人もいれば近しい人もいる。顔も名前も知らない、会ったことのない人もいるかもしれない。誰に向けて書くわけではない。そんな場所が欲しかった。"書く"という作業が好きです。想いのまま、勢いで話すことも時には大事だと思うけれど、じっくり自分の気持ちと向き合いながら言葉を選んで、自分の想いを綴る。書くことで怒りの原因を冷静に見つめられて、何でこうなったんだろう?と相手の立場に立って考えてるうちに嫌な気持ちは多少薄れてくる。なので書くという作業はイシイにとってとっても重要なのです。

 

 

FacebookInstagramといったSNSともまた違う。ここにはここにしか曝け出せないイシイがいます。FacebookInstagramにはどうも自分のことはなかなか話しにくい。マイナスなことは話したくないし、かと言って良いことや嬉しいこともこんなこと別に…ねぇ?自慢することでもなかろう、なんて思えてやめちゃう。

他人のそういうのは良かったねぇ、なんて微笑ましく見れるのに面倒な性格だ。

でも、自分の中に想いが未消化のまま積もり積もってく。あー、誰かに言いたい!でも誰に話したらいいかわかんない!薄っぺらい共感はいらない!それなら、ただただあーそうなんだぁって聞いてもらいたい。頭ごなしに否定もされたくない。論破もされたくない。だってまずはアタシの素直な想いなんだもん!(笑)

 

 

そんなこんなで、Blogを続けようかどうか、悩んでます。このBlogでしかワタシのこと知らない人はワタシのことどんな人だと思ってるのかな(笑)もしかしたら知ってる人だって、このBlogでは普段会うイシイとは違うって思ってる人もいるかもわからない。

 

 

最近感じたこと。

それぞれに持ち場がある。

一人で何役もこなせるのは素晴らしい。

プロチームならトレーニングコーチ 兼 通訳 兼 栄養士 兼 治療家なんて人が一人いたらめっちゃコスパいい。ぶっちゃけ、通訳や治療は絶対何かと兼任出来た方がコスパ高い(一人にかかる負担はこの際置いといて)。

でも、それぞれに持ち場があるのよ。アタシはそれを尊重したい。自分が出来るのはここまで。ここから先は違う人に任せるところ、みたいな。和の料理人的に言うなら焼き方、煮方、椀方…それぞれがそれぞれをリスペクトして成り立つもの。自分の方があの人よりも出来る。そう思う場面に出くわすことも多々あると思う。その時にどう振舞うか。それって人間性が色濃く滲み出ると思うんだよねー…。目の前で自分の持ち場をさも自分の持ち場のように掻っ攫われたら。悪気がなかったとしても、なかなかこれは気持ちのいいものではない。え、器小さいのかな(笑)悪気もないだろうし、深い考えも、きっとない(と思う)。アタシにしかできないことなんてこの世の中にそうそうないし、そんなスバラシイ人材でもない。だから別にだれがやってもいいことなんだ、けども。だからこそイシイにお願いしたいっていう"必要とされる"ところにいたいなと思うわけです。それってわがままなことですか?

 

…なんてね、こういう話を誰かにしたいの。

でも誰にしたらいいのかわかんないの!笑

 

ということで、辞めようかどうか悩むこのBlog。かれこれ、20年近く続けてます。もう少しだけ続けるかもしれません。

どれくらいの方が読んでくださってるかわかりませんが。いつも読んでくださってありがとうございます。

裏方。

 

今クールのドラマでニ作、ワクワクしながら観てるモノがある。当然のことながらニ作とも賛否両論分かれていて(やはり否の方が目につく💦)苦しい。顔を晒さずに文字だけで自分の気持ち(考え)をぶつけることの容易さと危うさ。まぁ色んな考えの人がいるな、程度に心に留めるようにはしているけれど。

 

 

『弱くても、戦わなければならない』。

これはその二作のうちのひとつのテーマ。

これ、どんな立場にも当てはまると思う。

例えば今、目下開催中の高校野球県予選。一回戦で優勝候補と当たろうが、戦わなければならない。まして野球で言えばどんな相手であろうと投手は投げなければならない。自分の球が早かろうが遅かろうが、変化球が得意だろうが不得意だろうが、投げなければ試合にならない。どんなに打たれても、ストライクが入らなくても、アウトを3つ取るまでは終わらない。負けるのがわかっていて、歯が立たないことがわかっていても戦わなければならない時はある。その時に大切なのは勝ち負けよりも『どう戦うか』なんじゃないかと思う。

 

弱くても戦う。

これは言葉で言うほど容易なことではない。

負けるのがわかってて戦わなければならない。これほどしんどいことはない。どうせ負けるから、どうせ歯も立たないし、どうせ…と言うならば戦わなければいい。そんなの相手にとっても無駄な時間だ。相手のために放棄すれば良い。ただ放棄するような人間は、きっと何かにつけて理由を自分以外のせいにする。それは、ちょっと卑怯じゃないか?と思う。アタシは諦めの悪い人間なので(笑)何とか引っ掻き傷でも残してやろうと悪あがきしたいタイプ。どうせ負けるなら、失うものなんて何もない。

 

それは、さておき。

戦うならそれなりの準備が必要だと思うのです。準備もせずに勝ちたいと口にするのは無粋だ。でも時として勝ちには不思議の勝ちがあるので勘違いしてはいけない。準備と弛まぬ努力の先に"勝利"がある。プロに関して言えば勝ってなんぼ、だろうけど勝ち方や負け方の印象は観ている人の心に残る。

 

 

最終的に、頑張るのは選手だけど。

その選手を支える人はたくさんいる。

マネジメントという裏方にスポットを当てたドラマがその二作のうちのひとつ。スポーツマネジメントの世界にどこまで忠実に描かれてるのかはわからないけれど(多分すっごい華やかな部分しか描かれてなくて本来もっと専門的でもっと違う面はあると思うけれど)アスリートを支える人がいるその奮闘ぶりと重要さ、魅力が伝わったらいいなぁ、と思う。

 

 

でね、主人公が言うんです。

『アスリートはわがままで自己中です』って。

全員が、とは言わないまでも当たってるとは思う。でも何を言っても許される、何をしても聞いてもらえるわけではない。そこには("ビジネスパートナーとして"も含む)信頼関係がなければ成り立たないわけで、そしてお互い本気じゃないと良い化学反応は生まれない。依存したり独りよがりではフラストレーションがたまる。せっかく支えるなら、存在意義のある人間でありたい。"支える"立場の人間なら誰しもそう思うはず。支えたい想いはあっても行き場がなくなる(空回る)と…虚しさがハンパない(笑)

 

 

裏方の、地味な立ち回りの気持ちがわかるだけに今クールのこの二作はネット民たちに酷評されようとも最後まで観たいと思う。"自分"を保つためにも(笑)

 

 

そのドラマは…

▷競争の番人(月9)

▷オールドルーキー(日曜劇場)

 

です😆

 

 

嫌いだ。

 

歳を重ねるごとに、というとまだ若いだろ!と多方面からお叱りを受けそうですが(笑)

 

 

年々、自分の性格が…嫌になってきました😂

 

 

小学生の卒業式で担任の先生からの手紙に"ユウコの良さは見返りを求めない正義だ、だけどそれは必ずしもユウコにとっていいことではないかもしれない"と書かれていた。

 

中学生の頃、転校する時に担任の先生からクラスメイトの前で言われた。"イシイがこのクラスから居なくなる、それはこのクラスから正義がなくなるということだ"と。

 

 

別に、自慢でも何でもなく。

正義感は無駄に強い方だと思うし、そう思われることも多かった。

それでもだいぶグレーゾーンは広いほうだと、思ってたんだけど、も。それが最近、どうも自分の首を絞めてるような気がしてならない…。

 

 

今日、とっても許せないことがありました。

相手へのリスペクトを欠く行為はスポーツマンとして、いや人間としていちっばん許し難い。

自分の言い分に耳を傾けてほしいのなら、言い方ってもんがあるだろう。大声で高圧的に、しかも相手を指さして一方的に言葉を浴びせるなんて最低だ。と、言いつつ、『言い方ってもんがあるでしょう!!!』と怒鳴りたくなったワタシもまだまだ未熟もんです。(言わなかったよ、出かかったけど抑えたよ、場違いなことはわかってたから)

 

あーーーー、悔しい!!

どうしてああいうのがのさばってるんだ!!!

許し難い!!!

 

って、ジタバタしてる自分も居心地悪い。

 

売り言葉に買い言葉。

何度も何度も口にするけれど、言葉には本当に気を遣う方だ。
自分がいいと思って使ったとしても、もしかしたら相手にはあまりいい印象を与えない言葉だったということもある。

気にすることなく、自分の思ったことを伝えればいいのかもしれないけれど、どうしても気になってしまう。

それこそ自分はいわゆる”言われやすい”性格なので…ほんっといろんな言葉でいろんなアドバイスなんかを頂きます(笑)

その人の為人(ひととなり)を知っていれば、まぁまぁ、この人なら致し方ないか、とか誉め言葉なんだろうなぁとか折り合いはつく。折り合いはつけれるけど、なんでその言葉をチョイスしたんかなぁ…ってモヤモヤはぬぐえない(笑)

わざわざありがとうございます、も受け取る側にとっては嫌味に取られるのでは?‼と気にしてしまうイシイ。特に感謝の気持ちを伝えたいときなんてどうしたらいいんだぁぁぁぁぁ!!!と悩んでしまいます(笑)

【わざわざ】という言葉には二つの意味があって、①何かのついでではなく、労力を惜しまず特別にそのためだけにするさま。『-見舞いに来てくれた』➁わざと、故意に。『ー人の仕事を邪魔しに来る』。

 

どちらも何かのついでではなく特別に惜しまず…だけど、なんとなく、➁のイメージが強い(ワタシだけ!?)。使う人次第で自分なら①の意味で受け取れるけれど、果たして人様に使うのはどうしたもんだろう…と。

 

 

昔、行くところ行くところで結構出くわすお方いまして。
その方に『あんたはハイエナか!』と言われたことがありました(笑)

ハイエナって、こーーーーんな動物だって知ってました?(笑)

賢くて愛情に溢れ、霊長類にも匹敵する複雑な社会をつくる、アフリカで最も成功している肉食動物、なんだそう。でも全く正反対、頭が悪く大食漢の腐肉食動物という『イメージ戦略が大失敗した』動物だそう。

文学作品や民芸の影響が大きいそうだけど、ハイエナと言われていいイメージを持つ人ってあまりいないと思う(笑)

その時20代だったワタシにとって、それはとてもじゃないけど褒め言葉としては捉えられなかったんですよね(笑)

ただ、大好きなあぶない刑事の中で(笑)こんなシーンがありましてね。

『人は俺たちのことをハイエナと呼ぶ。』

『俺たちもその呼び名が気に入っている。』

タカ&ユージが気に入っているのなら褒め言葉として受け取ろうではないか!!!!と思った当時のワタシ、エライと思う(笑)

 

 

自身の結婚式の時でさえ義父が顔を綻ばせながら

『いや~、馬子にも衣装だなぁ!』と言った…間違いなく、義父はこのとき最上級の賛辞を照れ隠ししながら伝えてくれたんだとワタシは信じている(笑)まぁ…絶対、自分の父親には聞かせられないと思ったけど(笑)

 

 

その他にも『それ褒めるときに使う?』って思う言葉を使われること多々あるのですが。結局、言われやすい人なので(笑)それならこの際、裏を読まずに素直にぜーーーんぶ褒め言葉として受け取ればハッピーか!!!と思い始めた(笑)

例え陰で褒めてねぇのにあいつ馬鹿だなぁ~とか笑われてたとしても(←こういうこと考える時点で歪んでる?笑)ポジティブに受け取った方が幸せかなぁ~、なんて。

 

そんなこといちいち(←これもわざわざと近いと思われる言葉の一つ)考えるイシイはやっぱり面倒な性格なのでしょうか(笑)

でも売り言葉に買い言葉って言葉もあるくらいだし。自分の口から出る言葉には自分の素直な気持ちと相手へのリスペクトは欠きたくないなと思うのです。

 

好きじゃない。

 

いてもいなくても、変わらないかもしれない。

どうせ変わらないなら、居ることで役に立ちたいと思うのが自然だろう。それがそこに留まる理由でありエゴでもある。

"居てほしい"と思われたいのは承認欲求。

 

 

"居て欲しい"と言わせたいわけではない。

お世辞や建前ではなく本心で思ってもらえたら嬉しい。ただそれはやはり、たまに言葉や行動で示してくれたら…なんて。

でも"わかってるよね?"っていう、それはそれでよく言えば空気のような存在でいるのが当たり前で…って。でも当たり前は当たり前じゃないと思うんだよね、面倒くさいこと言うと。

 

 

自分は役に立っているのか、必要とされているのか。そう考えてしまう時点で承認欲求の塊なのかもしれないと思えてしまって、カッコ悪いやら情けないやらの自己嫌悪。

自分が居たいって思うからここに居るの!ってエゴを突き通せる鋼のメンタリティが欲しい。

 

 

しばしば、自分がわからなくなる。

自分のことを好き!と胸を張って言える自信はない。長所は?と聞かれても言葉に詰まる。

どちらかといえば自分に関しては嫌なところばかりが目につく。自分のことがそうだから、他人に対してはまず良いところを見つけることにしている。

 

自分が嫌いなわけではない。好きじゃない。

嫌いと思ったら生きいてくのが辛くなる。

嫌な奴だな〜…と思うこともあるし、些細なズレにイラッとしたり違和感を感じてしまったり。誰かに迷惑を掛けなければいい、とは思うけれど自分がしんどい。じゃあそんな性分を改善すればいいんだけれど。ワタシは"正論"とか"こうあるべき普通"とか、そういったものの呪縛に囚われてるように見えるらしい。呪縛って(笑)なるほど、そんな表現が当て嵌るのか。呪縛に囚われている自分に陶酔してるわけではない。解けるものなら、解きたい…というかこの苦しさからは放たれたいとは思う。ただ、そんなにカンタンに解けるものではないし、全否定もしたくない。これはあくまで自分の考えだけど、今までの自分を全否定してしまう気がするから、したくない。自分の中できちんと折り合いをつけて納得して消化したい。

 

陶酔してるわけじゃないけど、こうやって自分を内観出来る自分のことは嫌いじゃない。まだ冷静だと思ってる。(買い被り?)そうやって常に内省出来る自分も悪くないじゃない、他人に同じことを求めなければいいんだから、と囁く自分も、いる。

 

 

とどのつまりはやっぱり自分のことはイマイチ好きじゃないのです。こんな自分にも居てもいい場所や求められる場所が、少なからずある。

"hate"ではなく"Not really"なら、完全排除しなくてもいいのかな。でも苦しい時は誰かに縋りたいのだよ…わがままだなぁ(笑)