Monologue〜フィジコISHIIの熱苦しい独り言〜

フィジカルパフォーマンストレーナーのイシイです。仕事のこと思ってること熱苦しく呟きます。

信じるって、さ。

『信じる』って言葉。どんな時に使いますか?

また最近使いましたか?それはいつ?どんな時、誰に使ったか覚えてますか?

先日、とある映画の完成報告イベントで主演を務めた愛菜ちゃんが『信じる』ということについて語り、かなり称賛されていました。若干16歳。頭もよく感受性も豊かなんだろうなぁと思わずにいられないコメントでした。

そこで出た『信じようと思う』っていう言葉の意味について。イシイは愛菜ちゃんの倍近く歳食ってますが(笑)ほぼほぼ愛菜ちゃんと同じ考えの境地には辿り着いてました。その人自身を信じているんじゃなくて、『自分が理想とする、その人のイメージ(愛菜ちゃんは人物像、と言ってました)みたいなものに期待してしまっている』ことなのかな、と。いつのまにかその人に自分の都合のいいように勝手にフィルターをかけて見てしまって、勝手に理想像を重ねて期待されて…重ねられた方は、いい迷惑よね(笑)

勝手な理想は、理想通りだったり期待以上だと喜ばれる。逆にその理想にそぐわなければ『こんな人だと思わなかった』と失望したり、されたり。

愛菜ちゃんの言葉は続く。

" だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思った"

本当に16歳デスカあなた( ˉ ⌓ ˉ ๑)

それだけ、いろんな人を見ていろんな人に見られてきて想像もつかないくらいの苦労をしてきたんだろうなと思う。

そうなのだ。愛菜ちゃんの言うようにその人が裏切ったとかいうわけではなく、勝手にかけていたフィルターがその人のその部分を隠してしまっていただけに過ぎない。その見えなかった部分もまたその人であることに変わりはない。

そこも含めてその人を受け入れたいところだけど、『思ってたんと違う!!』となるとなかなか人間難しいですよね。。どんな一面を見ても自分は信じる!なんていう揺るぎない自分を持つのもまた難しいもの。。愛菜ちゃんも、そう言ってました。だからこそ人は『信じる』と口に出して、不安を払拭して自分の思った通りの人であって欲しい…って願望なんでしょうね。

不安なことがあったら何かにすがりたいし、信じたい、信じようって思いたくなる。でもそれって、逆効果で理想と違った時に大きなショックを与えることになる。

こうあって欲しいっていう自分の理想像に近づくほど、どんな人や状況に対峙しても、まずは理解しようとする。常にその準備はしておくべきなんだよね。拒絶しちゃいけない。見ないフリをしてもいけない。一度信じたものは…どんなことがあっても、たとえ思ってたんと違う!現実が目の前に現れても、、受け止めるのが"信じる"ということの責任なのかなぁ…、なんて。とか言って、あーもう!信じてたのに!!とか腹を立てることがあるのは…ご愛嬌💦💦

『信じよう』と思ったことは何があっても受け止める"揺るぎない自分"を持つ。逆に『信じたい』はまだちょっと揺らいでる証拠かもな。

いずれにせよ。信じるって言葉は、自分の中だけのもの。人に宣言するもんじゃない。そして信じるって、、苦しい。信じる、なんて感情を持ち合わせてなかったらもっと楽に生きられるかもしれないのにな、なんても思うのです。

ついでに愛菜ちゃんのインタビューをシェア。

https://youtu.be/jjgzltx_EX8

 

自由。

"尽きせぬ自由は

がんじがらめの不自由さの中にある"

これだけで誰の歌かわかった貴方は仲良くなれるかもしれません(笑)

最近、いやずっと自分の心の中には『自由には責任がついてまわる』という言葉がありました。18年間、好きなことを仕事にしてそれなりに自由に暮らしてきたと思ってます。それでも自由に好きなことをするっていうのはそれなりに責任がついてまわり、好きだからこその苦労ももちろんある。その覚悟がないならするべきではない、という意味でずっと自分の中に君臨し続けた言葉でした。

人間、圧迫されて押しつけられて選択肢のない中にいると当然自由が恋しくなる。恋しくなるばかりか現状に不満が募りストレスを感じる。悪循環で良いことなんてないように思える。

ところがそれだけ恋しかった自由を手に入れると人は途端に堕落するか強欲になる。良い意味で欲張られれば良いけれど、大抵の場合、自分に都合のいいように自由を求め始める傾向があるように思える。

水も温度も電気も、高い方から低い方へ流れるように人間、楽な方や緩い方へはすぐに流されてしまう。そこで己を律することはなかなか難しいことなのかもしれないけど、、そうやって得た自由は尊いものではなくなる気がします。

今の世の中、ググっちゃうといろいろ教えてくれるわけです。自由と責任について調べてみたら面白かった。根本的に自由には責任がついてまわる、というよりも責任が取れれば何をしてもいいのか、という考え方を見てなるほど、と思わされた。捕まる覚悟があるなら犯罪を犯すことは自由か、それは違う。となると覚悟と責任だけの問題ではなくなってくる、と。

自由とともに権利や、ルール、責任とそれぞれが単独で存在することはなく、共存している。

そう考えてみると、狭義の自由はあれど本質的には不自由な中で人生を楽しんでいる、ということになるのでは?と。そもそも責任が伴う自由=他者が決めた範囲であれば自由。というなら、ある意味では誰かの自由は誰かの不自由である、ということでは?完全なる自由、とは三次元では起こり得ないことなのかな、とか思考回路がショートしかけてきた。

完全なる自由なんてない。誰かの決めた範囲の中でどれだけの自由を勝ち得るかは個人の心掛け一つなのかもしれない。

尽きせぬ自由は、がんじがらめの不自由さの中にある。

 

適量。

スピリチュアル的なもの、好きです。

占いも、まぁまぁ好き。

某番組のロケとか出くわしてみたいけど、占われる側としては誰に占ってもらうかは選びたいところ(笑)そんな数いる占い師と言われる方々の中でも好きなのがし○た○さん。

きっかけは占いでしたが、note.を読み始めてからは彼の紡ぐ言葉に魅せられました。

特に面白いなと思ったのが『尽くすの適量』と『他人との距離感』について。

イシイあるある(笑)だけど『あなたの依頼だったら!』と腕まくりをしたくなる案件や、自分が好きな相手から頼み事をされることはすごく嬉しい。頼りにされている、必要とされてるのが実感できるから。

でも、ここで気をつけなければいけないのは尽力する『量』。これを間違えてしまうと相手が『やってもらって当たり前』という感じになってしまいがち。さらには相手から寄せられる感謝の気持ちなどが薄れていってしまったり、逆にこちら側が『こんなにやってるのに』と思い始めたら、、適量ではなくなってしまう。

どちらかというとイシイは、注ぐ愛情が(良くも悪くも)過度になりがちなので気をつけないといけないのですが…。良い関係って、なんでしょう。お互いを頼りにしながら長続きする関係ってどんな関係でしょう。

し○た○さん曰く、『お互いを通じて“勝手に”自分の夢を見られる関係』である、と。

『この人が目指している夢を応援したい。そして、この人の目線の高さを近くで学んでいると、私自身がもっと色々なことにチャレンジしたくなる』。確かに確かに!わかるわかる。選手はイシイにとって、イシイの知っている世界を良い意味で利用しようとしてくれようとしてくれる人でありその姿がイシイにとってももっと学ぼう!という活力になる。その積み重ねがこの人なら、この人に、という信頼関係にも繋がるのかな、と。そこには自然と『お互いに対するリスペクト』が存在する。それが常に、お互いが出来ているのがいい距離感であり、尽くす適量である、と。

だから、でしょうか。

簡単に○○教えてよ!とかタダでやってくれない?感が溢れてる依頼や人に距離を取りたくなるのは(笑)プライスレスにはリスペクトがつきものかなと思います。でなければタダより怖いものはない、もしくはそれっきりの縁かな。人との距離感を学べない(感じられない)人とはいいお付き合い出来ませんもんねー。相手からもそう思われないように気をつけたいものです。

きっかけ。

突然ですが、健康って何だと思いますか?

どこも痛くないこと、医者にかかってないこと、薬を飲んでいないこと、健康診断の評価に問題がないこと。そんなところでしょうか。それは、身体の健康。

多少の心配ごとや悩みはあれど充実した毎日を過ごせてる。これは心の健康。

よく、心身ともに健康にって言われるようにどちらかが欠けても健康じゃない気がします。ただ、、身体の健康って人それぞれで、多少痛いところがあったり不自由なところがあっても心が元気なら健康なのかなって思ったりもします。実際、イシイは片方耳が不自由で全くと言って良いほど聞こえません。多少の不便と苦労はあるけど…至って健康です。あ、血圧も低すぎるほど低いけど、朝起きられるし元気です。

だからもしかしたら、心が元気じゃない方が色々問題をきたして来るのかなぁ、なんて。イシイはカウンセラーでもメンタルトレーナーでもないけど、身体を動かしたり、筋肉をほぐしたりすることで元気になってもらえたらな、という気持ちはあります。

一括りに『健康』って言っても漠然とし過ぎてるけど、生きてく上で大切なことだと思ってます。お金で買えるようで、買えないもの。薬や治療、身体に良いとされるものはお金で買えるけど、それを取り入れる身体は生きてる限り自分でメンテナンスをしなければ長持ちはしないと思うんです。

日本のフィットネスクラブへ参加している割合は人口に対して約4%と言われていて先進国の中でもダントツに低い。

かつて大手のフィットネスクラブに勤務もしていたイシイですが、、通える人って、やっぱりほんの一部なんだと思う。もちろん通わずとも運動出来る人もいるだろうし、運動しなきゃな、と思いつつ行動に移せない人もいるはず。別に運動しなくたっていいもん、と開き直って謳歌してる人だっていると思う。

何が言いたいかっていうと。

人間が生きてる限り、一日中横たわっていようが筋肉が心臓を動かす。筋肉が動けばカロリーは消費されるからお腹は空く。。昏睡状態ではなく、意識がある状態なら美味しいものや好きなものが食べたいと思うはず。どこそこの○○が食べたい、とか観に行きたい、とか。最低限自分の身体をコントロールして動かせるだけの筋力があれば人生は如何様にも楽しめると思うのです。ピンピンコロリ、じゃないけどおトイレに行くことだって健康でなければ誰かの手を借りなければならない。せめてそんな状況って、、最後の最後でありたいと思うんです。自分の身体は自分で守る。それって、何も難しいことじゃなくて、日々ちょっとしたことを気をつけたり、頑張ったりすることの積み重ねで得られるものじゃないかなと。

運動不足だと感じるならそれを解消するお手伝いを、昔みたいにとは言わずともちょっと痩せたいな、とかマラソンなんてやったことないけど走れたら楽しそう、今からでも出来るかな?とか。そんなささやかな願いを叶えるお手伝いがしたい。

イシイは専門学校卒業して18年。18年分、日本中でトレーナーになりたい人が世に出て、フィットネスクラブ乱立時代。世の中にトレーナーと名のつく人達は溢れてる。けど、フィットネスクラブに行かなきゃ出会えない、だけでは飽和状態だと思う。フィットネスクラブに通うことが、すべてではない。自分でやれる範囲でやりたい人、まだフィットネスクラブに通うとかそんなモチベーションじゃないけど…という人。そんな人のステップアップのきっかけをつくれないかなぁ、と思ってるわけです。その先に、もっと動きたい!と思ってフィットネスクラブに通うもよし。もっとやってみたい、とパーソナルトレーナーをつけるもよし。その、足掛かりになりたいのです。

そんなサービスを模索してます。

乞うご期待です。

葦。

人間は、考える葦である。

その言葉は知っていたけど、どういう意味なのか深く考えたこともなかった。

何故、その言葉について知りたくなったのか。

それは自分が『考える』ことを辞めたら人間ではなくなるのか。考えることを辞めるとはどういうことか、考えたから。

人間は考える葦である。その言葉を残したパスカルは哲学者であり、モラリスト(=生き方を探究した人)でもある。

人間は一本の葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である。

そしてこの言葉には続きがあった。

『だから、我々の尊厳のすべては考えることの中にある。我々はそこから立ち上がらなければならないのであって、我々が満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることに努めよう。ここに道徳の原理がある』。"そこから立ち上がらなければならない"の"そこ"とはどこか。
人間は自然や地球から見ればちっぽけだけど、蟻から見ればとてつもなく大きい。

『最も弱い』というのは、生物界の最下層ということではなく、感情を持たない草木のように地に根を張るわけではなく、感情や信念によって揺れ動きもし、また山のように動かぬ覚悟をも持ち合わすことも出来る、不安定な存在だということだろうか。

ワタシが知りたかったのは、考えるのをやめたらどうなるかってことで、難しいことは考えるのよそう(笑)まぁ、生きてる限り何かしら考えては生きているんだろうけど。ほんとーーうに考えなくなったら、人間辞める(意志を持って生きることを辞めた)ようなもんよね(笑)やめるんじゃなくて、ちょっと横に置いておこうかな。

考えて、考えて。

出口が見えなくて考えるのがちょっと苦痛になってきて。何で見えないかも薄々感じてて(認めたくないわけではない)。あー、もう考えるのやめよっかな、って半ば諦めモードになって。でも諦め切れないんだなー。

Action always beats reaction.Just do it.

行動なきところに反応なし。

何かやらなきゃ何も始まらない、と思いつつ一歩も踏み出せず。でも、待てよ。

理想と現実の中間で良い意味で諦めればいいんじゃないかってちょっと思えてきて。理想は理想、格好悪くても(そんなに格好つけてるつもりはないんだけど)いいっかって。

カタチにこだわり過ぎないで、とりあえず発信してみようかなと思い始めました。

生きてる限り、やっぱり考えることは辞められないみたいです。考えることを拒絶したら、生きていけないんだな、きっと。

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Sober。

地味(sober)か派手(flashy)か。

当然世の中、良くも悪くも脚光を浴びるのは派手な方かと思う。

地味なものが脚光を浴びるには地道な努力と時間がいる。

別に、派手な人生を送りたいわけではない(笑)

地味で結構。

例えるなら毎年春になれば桜が咲く。豪華絢爛、咲くのを待ちわびる人が大勢いる。

最初の一輪が咲くのにニュースにもなる。人間でいうところの国民栄誉賞級。

一方、たんぽぽはどうだろう。

イシイはお気に入りのたんぽぽがあって、毎年それを見つけるのが結構楽しみだったりするわけですが…(笑)たんぽぽって、咲いたところでニュースにもならんし、道端に咲いていれば踏まれてたりするのも日常。

丁寧にお手入れをされなくてもニュースに取り上げられなくても、たんぽぽは毎年咲く。それを待っている人は必ずいる。それを見て笑顔になる人が必ず一人はいる。

たんぽぽにはたんぽぽとしての誇りがある。

『自分の作りたいものとお客様の求めるものは必ずしも一致しないし、自分のつくった味がお客様に受け入れてもらえるとも限らない。』

某ドラマの中でめっちゃ響いたセリフでした。

再放送でたまたま見たけど、めっちゃいいこのドラマ!!!

自分のつくりたいもの=やりたいことでなければ拘れない。

でもそれは必ずしも求められているモノではないかもしれない。

拘りを捨て、万人に受け入れらるモノでオリジナリティを出していく…か。

それで納得出来ればいい、けれど。

そもそも地味路線な時点で万人受けするものでは…ない?

いや地味だからこそ万人受けするのか?

好きなことを仕事にすることは現実と理想の間で戦うことなのかも。

地味でいい。

好きな人だけが選んでくれたらいい。。決して、多くはないだろうけど。

でも、それを探している人の目に留まらなければ意味がない。

運命的に出逢うのを待つだけでなく、動かなければ出逢えない。

凡人には凡人の戦い方がある…か。

悩める凡人に、どなたか合いの手を…いや愛の手を(笑)差し伸べては頂けないだろうか。

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祭りのあと。

容赦なく、暑かった。

慢心はなかったと思う。自分たちでも感じないくらいの緊張だったのか、緊張していたことすら感じられないくらい勝つんだという呪縛に囚われてしまっていたのか。やっぱり、高校生は何が起こるかわからない。

思い返せば一昨年の12月。

先生から電話をいただいて、学生トレーナーを練習に…という話だったのを自分が行きたいと願い出たことから繋がった。今年のチームはいいんだ、と先生も言っていた。そんなにいいなら学生じゃなくて自分が行きたい。烏滸がましくも、いやここは自分が行くべきだ、そんなにいいチームなら確実に力になりたいと強く思った。特に誰か現場を紹介したいと思う目ぼしい学生がいたわけじゃない、ということは予め断っておく。前途ある若者の未来を横取りしたわけじゃ…ない(笑)

そんな形で始まったラグビー部との日々。

不定期ではあるけれど多い時は週に一回、毎週のようにグラウンドに行ってまるっと90分イシイのトレーニング。ただでさえ少ない練習時間をスキル練習以外のことに費やそうとしてくれる理解ある先生。何とか公立校でもやれるんだというプライドと、ジャイアントキリングを目指して地道に愚直に取り組んでいく中で、少しずつチームに対する愛情というのは強くなるのはごく自然なこと。2年目ということもあり今年の選手たちもしんどくても楽しくやろう!と嫌な顔せず毎回本当にアホみたいに楽しみながらキツいトレーニングに取り組んでくれた。

世の中が大変な中で、最後の大会を迎えられることがどんなに幸せなことか。きっとみんながいちばんにそれを感じてたと思う。未消化な想いを抱えてふわっと青春時代が終わってしまった友達の想いも必要以上に背負って、みんなの分も勝つんだ!ときっといつも以上にどこかで気負ってたのかもなぁ、、なんて。本当に本当にいいコたちだったから。そんな、ちょっとしたことが積み重なってちょっとずつ、歯車の回りが悪くなっちゃったのかな。

初戦を不甲斐なかった、と嘆いて次こそは、と臨んだ2戦目。ゲームの入りがうまくいかなくて『こんなはずじゃ』と思っただろうな…。

でも、悪いなりによく耐えて前半を最小失点に抑えたと思う。数年前帯同したチームで見た、ロスタイム逆転トライ&CKで7-5で優勝した試合を勝手に思い出してた。あの時も厳しいと思った。それでも最後まで諦めずに試合を観ていた。あの時と、きっと一緒。ハットトリック決めてこいよって送り出したあのコか、まだトライ決めた瞬間を見たことのないウイングのあのコがきっと決めてくれる。それとも何だ、初戦の先制トライみたいに2年生のFWが突っ込んで決めちゃう?苦しかったけど、後半はじりじり敵陣で泥臭く戦っていたから自分の妄想がデジャブのように目の前で繰り広げられると信じて疑わなかった。

ホイッスルが鳴って、グラウンドに突っ伏した選手や大の字に倒れて空を仰ぐ選手、ただただ立ち尽くして空を仰ぐ選手。。

正直、試合中も泣きそうになりながら観てて、終了のホイッスルが鳴った瞬間、泣きそうだっけど、選手の抑えきれなかった嗚咽を耳にして……アタシの涙は一瞬にして引っ込んだ(笑)

きっと、彼らはアタシにいう。

『ごめんなさい』って。

花園連れて行けなくてごめんなさいって。

だから、泣いちゃいけないと思って。そのあとは必死でした(笑)コロナがなければ、全員ハグしてあげたかった。アタシには最高の2年間だった。それはキミたちのお陰。勝敗に関係なく、キミたちのお陰で最高にシアワセな2年間だった。本当にありがとう。

それに、感動したのはOBたちの熱い気持ち。

聞けば夏休みも練習に来てくれたとか。練習試合や遠征もままならなかった7,8月の2ヶ月。OBたちの存在がどれだけ大きかったことか。昨年は決勝観にいけなくて、準決勝勝った試合しか観てなくて…今ここで写真撮ったら終わっちゃう!と思って撮り損ねた学年。決勝、ものすごいいい試合したんだって聞いてめっちゃ嬉しくて、めっちゃ悔しくて。ありがとうもお疲れさまも何も言えずに彼らと離れてしまったので、数名だけど最後になってしまったこの試合を共に見守ることが出来たのは…なんていうか、巡り合わせなのかな、なんて。

悔しい気持ちは、その時どんなに悔しくても残念ながら風化していく。その悔しさを晴らす日まで100%その悔しさを持続することなんて無理に等しいけど、、どれだけ忘れずに自分に厳しく努力し続けることが出来るか。それだけ努力しても報われないことの方がきっと多い。必ず報われると限らなくても、頑張る。その過程こそが何にも替え難い"財産"になる。勝ち負けや記録はその財産の装飾でしかない、とワタシは思う。どんなに輝かしい結果も、中身が伴わなければ想い出としては心に残らない。ただただ優勝した、記録を出した、という薄っぺらい賞賛の結果だけでは虚し過ぎる。…負け犬の遠吠えと言われたくないので実際に勝って言いたい台詞でもある(笑)

出逢えて良かったよ、ありがとう。

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想いが強いチームほど、負けたあとは空っぽになる(笑)祭りのあとのように。