Monologue〜フィジコISHIIの熱苦しい独り言〜

フィジカルパフォーマンストレーナーのイシイです。仕事のこと思ってること熱苦しく呟きます。

自由、とは。

 

ルールや約束って、何のためにあるんでしょう。
当然、守るため。
では何故守る必要があるのか。

カンタンに大雑把にいうなら、安全安心を守るため、かなと。守らないと何かしらの危険が及ぶ可能性があるから、じゃないですか?

 

いや。

もちろん世の中には理不尽なルールや約束もあるでしょう。ありがちなのはソックスの色は白とか茶髪禁止とか。これは別に守らなくても…と思われがちだけど、例えばその所属する場所のイメージにそぐわないから、という理由ならば従わないといけないんじゃないかな、と思うわけです。そこに入りたいそこにいきたい、と思ったイメージは少なからずその理不尽なルールが守られてきたからっていうのがあると思う。誰かが立ち上げた、作り上げたその場所や組織のルールを変えたければそれ相応の覚悟と行動力がないといけないとワタシは思ってるんです。変えちゃいけないなんて思っていない。変えるにはそれ相応の、周りを納得させる確固たる理由が存在するべきだ。

 

 

つまり、ルールや約束は基本的に守るもので。
もしそれに反したことをしたいのなら真っ当な理由が必要だと思うわけです。

 

 

何でそんなことを思ったかっていうと。
"これは私のアイデンティティだ"
"誰にも迷惑はかけない"
"ここが自由だから来たんだ"
と土下座されたのだ。

その瞬間、正直に思ったこと。
何がアイデンティティじゃ。←デビルワタシ
そこまで言い切るとはすごい←エンジェルワタシ
誰にも迷惑かけない…これに関しては、理由を明確に示してるのだけど、、100%、誰にも迷惑をかけない、ということはありえない。

もしあるとしたらやらなければならないことに対して真剣に取り組んでいない、と言われても仕方ないと思われる。
確かに、"そこ"は個性を尊重するというか…かなり自由度が高い。でもその高い自由度の中で明確な理由があって定めたルールに関してその人はアイデンティティだの自由だのと至極真っ当に聞こえる言葉を並べ、自分の主張を認めて欲しいと食い下がった。
他の人は食い下がった結果、妥協点を示してくれた。だからお願いします、と。

 

 

うん、いや、違うんだよ(笑)
その熱意には驚いたよ、確かに。

 


でもそれは、ただの自由を履き違えた自己中ではないのか?自由には、責任と覚悟がついて回ると思ってる。その人は、甘い。自分が思っているほど世の中甘くない。その人なりのこの瞬間の責任も覚悟もあるだろう。でも、それはままごとのような責任と覚悟でしかない。何とかそれを気付かせてあげたい。理由も、妥協点も示した。それでも嫌だ、コレを認めて欲しいと食い下がられた。

 

 

 

『いいとは言えない』
これが、アタシが返した答え。


アタシはそれを容認出来るほどの責任は持てない。

 


一度自由を知ってしまうと、何かに縛られることへの耐性はあっという間になくなってしまうのかもしれない。

そう、ただの厄介なヲタ。

 

想いは深ければ深いほど底なし沼のようにはまる。どっぷり浸かって、あわや溺れそうになるくらいでやっと、自分がそこまではまってることに気付いたり。

 

はまることは、悪いことじゃない。
はまるのは、本気だから。
はまっていくことに気が付かないくらい、真剣だったから。
度が過ぎた想いも、ときには受け手にとっては力強く背中を押してくれる追い風になることもある。矛盾するようだけど、"節度のある度が過ぎた想い"は、強い。そして強い想いは誰かの心を突き動かしたり、誰かの妬み嫉みを買ったりする。ただただ純粋に想っているだけなのに。

 

 

本気と情熱は、どんなに時間がかかっても伝わる。
私はそう信じてる。
でもそれは”努力は必ず報われる”と同じことかもしれない。
どんなにどんなに時間をかけても、響かない、伝わらないことも、きっと、ある。

でも沼にはまる人は、響くか響かないか、伝わるか伝わらないか、とか。
究極のところ、そんなことどうでもいいのだ。
有り余る想いの丈を(出来ることなら)押しつけがましくなく、ぶつけたい。
見返りなんていらない。相手の成功、活躍、生き生きとするさま…それを見れれば、それだけで十分なのだ。自分の〇〇のお陰かも、とかそんなこともどうでもいい。すべては推しのため。はい、いわばヲタなのです(笑)

 

そんな推し活めいたことが自分の生業に絡んでいたりすると、苦しむことも多々ある。生業であればそこには金銭が発生する。金銭は責任であり、対価である。対価とは他人様からの評価だ。もちろんこちら側から交渉することも多々ある。自分の価値を、業界の価値を下げないため。だけどそれが全てではない、と私は(だからダメなんだ、甘いんだとお叱りを受けることを承知で)そう思っている。

 

ボランティアが悪いとは言わない。
ボランティアは無償の愛だけど、当たり前ではない、無償の、愛。
無償が当たり前だと思う方々には決して届けたくない無償の愛。
私はビジネスのうえに、この当たり前だと思うなよの無償の愛を注げる相手とお付き合いをしたい。ずぶずぶでもなく、なぁなぁでもなく、お互いにリスペクトがなければこの関係は築けない。何と言われようと、これは私のやり方。細々と21年積み重ねてきた経験の中で確立していった、私が私らしくあるためのやり方。

 

こんなに厄介なのに(自分でも嫌になること多々あるのに)それでもイシイがいい!!と言ってくれる少数派の方々のお陰でここまで歩いてこれた21年。感謝しかないです。これからも私のやり方で地道に一歩ずつ、必要としてくれる人のために尽力してい

相談、て。

相談、したことありますか?

相談。されたことありますか?

 

ワタシはどちらもあります。

相談って、何でしょ。

『相談』

”物事を決めるために他の人の意見を聞いたり、話し合ったりすること。またその話し合い”とあります。

 

あくまでワタシの場合ですが、相談するときって…2パターンあると思うのです。

 

パターン①

答えが自分の中で決まっていて(気づいてる場合と気づいてない場合がある)誰かの意見を聴きたい、または背中を押してほしい。

 

パターン②

本当にどうしていいかわからず誰かに意見を求めたい。

 

ワタシの中ではこの2パターン(笑)

パターン①の場合は答え合わせじゃないけど、否定されたくないからきっと似たような思考で”自分のことをわかってくれる人”にしがち。⇐あくまでワタシの場合。

パターン②の場合は自分の考えを否定しない人や、正論や持論をぶつけない押し付けない人を選びがち、かな。持論強めの人に話すと心がへし折られちゃう(笑)

 

でも最近思うのは自分の中で相談しよう、相談したいって思ったとき、今自分はどっちのパターン?そしてこの心の内を晒せるのは誰?といったん立ち止まる。自分の弱みを見せたくないとかそんなんじゃない。ただ、これはもしかして相談という名の弱音じゃないのか?愚痴じゃないのか?、と。

 

 

言って、どうなる。

そんなこと言ってると人は鏡だから(笑)だんだん相談しにくい人になり相談されなくなるんだろうなとは思うが(笑)考えてしまうのだ。ワタシのこの話のために、この人の大切な限りある時間を奪ってしまっていいのか?、と。

 

うん、書いてて思いました。

ワタシ、とてつもなく面倒な性格してんなぁ(笑)

逆に相談されたときは極力、否定しない、相手が大切にしていることは何かをできるだけ感じ取るよう心掛ける。自分の意見を言うときは「あくまでワタシの考え、ね」と前置きして正論や持論を振りかざさないように注意しながら、話すようにしている。

ちょっとした愚痴、弱音。ちょっとだけ共感してもらいたくて、ちょっとだけ背中を押してほしくて…、あぁそうか。認めてもらいたいんだ。受け止めてもらいたいんだ。それも全面的に両手を広げておいで!!!って感じが全面に押し出されているのは嫌なのだ(この辺もわがまま笑)。

だから『ね、私間違ってないよね?そうだよね?そう思うよね??』みたいなオーラびかびかの相談は眩しすぎて…苦手なのだ。いや、、でもワタシもそういうとき、ある。でもそこまで圧強め…じゃない、、みんな、同じか(笑)だからやっぱり誰に話すかってものすごく慎重になる。慎重に選んだ結果、なんだか面倒にもなり(おい!笑)相手にも悪い気がしてきて未消化のまま時間が解決してくれるのを待つ…というのがお決まりかも。

 

相手のことを考えすぎなのか。

はたまた限りなく面倒な性格なだけなのか。

…うん、どっちも、かな(;'∀')

 

 

最近、誰かに相談されましたか?

それとも相談されましたか?

 

 

0→1、1→1、1≦ 。



どんなことであっても続けること、続いていくことは容易ではない。

例えば毎日腕立て伏せを10回やる。


そんな誰にでも出来るようなことであったとしても、それを一年続けることが出来る人はどれくらいいるだろう。

 

 

何もないところから何かを始めることも容易いことではない。ゼロ、もしくはマイナスの状態から何かを生み出す、始めるには強い意志と情熱と、弛まぬ努力が必要だ。そうやって"誰か"が心血注いでカタチにしてきたものを、その誰かを知る人、もはや言い伝え的にしか知らない人たちがどんなカタチであれ、引き継いで今に至る。

 

 

 

0→1が大変なことは誰もが容易にわかる。
でもそれと同じくらい、『 1≦ 』にはものすごい労力が必要なのだ。ただ存在していればいい、1→1の現状維持でさえ、多少の責任感や使命感を持った人がいなければ、どんなに良いものも廃れて消える。
それを1≦となれば、組織内には必ずと言っていいほど温度差が存在するゆえ一筋縄ではいかないことの方が多い。 『1≦ 』を目指すというのは言わずもがな、"断固たる決意"が必要なのだ。

 

 

 

 

どこかに何かに所属するということは、せめてその1→1を守る責任は大なり小なりあるということだと思う。それは義務ではなく、歴史ある場所に所属する上での最低限の責任だと私は思う。
それだけ長く存続するというのはそれだけ関わった人たちがいるということ。カタチは違えど、重要文化財のようなものだ。それを後から来た人間が泥を塗っていいわけがない。

 

 

 

先日BSで放送されていた某大学ラグビー部の100周年記念番組を観て、そんなことを感じたわけです。そもそも推しチームゆえ心に響くものがあったのかもしれないけれど(笑)素晴らしい番組でした。

 

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100年の歴史と関わってきた人たちの想い。

一年や二年ではない。百年ですよ、百年。
第100代キャプテン。100代目の最上級生。
100周年の節目に日本一に。
日本全国の、それこそすでにあちらの世界に逝かれたOBの念やら何やら(笑)含めたらとんでもない数の先人たちの想いを背負い、とんでもない重圧がのしかかったシーズンだっただろう。それもまた巡り合わせなんだよね。見方を変えれば千載一遇の巡り合わせ。味わいたくても誰もがそんなメモリアルな境遇を味わえるものではない。

とは、いえ。
めちゃくちゃしんどかっただろうなぁ。。
惜しくも力及ばず、決勝で敗れて準優勝だったけれど。

 

 

 

何かを生み出す、何かを引き継ぐ、続けていく。

0→1、1→1、1≦。

どれも並々ならぬ労力、強い意志、情熱と言ったものをひっくるめて断固たる決意がなければなしえない。

 


それと…出来れば同じ熱量で断固たる決意を胸に秘めた仲間がいれば尚、心強い。そういう人間の集まりって素敵だなと思うし、そういう人間でありたいなと思うのです。

 

 

 

歴史というには烏滸がましいけれど、曲がりなりにも続けてきた私の20年。一人だけど、一人じゃない。恩師や今まで関わってくれたチームやスタッフ、選手、声を掛けてくれた先生たち…今の私はその方々との出会いあってこそ。だから中途半端なことはしたくないのです。

私は頼まれなくても"1≦"を実現しようと無駄に背負い込むタイプではあるけれど(笑)常に本気!だけど、もっと本気出す。私のことをよーーく知ってる皆さま。砕け散ったら、骨は拾ってください(笑)

 

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市場価値とか評価とか。

FacebookInstagram、X(旧Twitter)、Threads。

 

自分に関係のある人のはもちろん、関係のない人のでも興味がありそう、とか何かしらに紐付いてたくさんの投稿が次から次へと流れてくる。

 

SNSを何で始めたのかよく覚えていない。

元々Blogを始めた方が先だった。

仕事の宣伝のため、だったのかもしれない。でも結局SNSから仕事に繋がったかどうかは…(笑)意外にも仕事につながったのはHPやBlogだった気もする。仕事に繋がった、というよりも仕事やセミナーで知り合った方々とのその後の交流の場として活躍しているのがSNSのような気がする。

 

 

一応、ね。全てにアカウント持ってるんです。

だけどXやThreadsはほぼほぼ閲覧のみ。

この二つは閲覧するだけでものすごく感じることがある。Xなんか、恐らく素性を晒してる人が少ないような気がする。全く知らない人の投稿に、ただ通りかかっただけの人がまるで通り魔のように辛辣で粗野な言葉を投げつけてる惨状を目の当たりにして、顔も名前もわからなければ、人間とはこんなにも容易く他者を傷つけるかもしれない言葉を投げつけて平気なフリをしているのかと悲しくなる。いろんな人のいろんな考えに触れ、改めて言葉って伝え方って大事だなぁ…なんて思わずにはいられない。もちろんむちゃくちゃ優しい言葉もある。だから本当にいろんな人いるなぁ…って(笑)当たり前のことですが(笑)

 

 

でね、やっぱり紐付いてというか関連して同業者の人たちの投稿を目にするわけです。

 

よく知ってる人、

お世話になった人、

関わったことのある人、

全く知らないけど気になる人。

 

どれもこれも、刺激になります。

みんなすごいなぁ、頑張ってるなぁ、

あぁ、自分ももっと頑張らないとな、と。

私の周り、本当にすごい人ばっかりなんです。

すごいなぁと思う裏側で、それに比べて自分は…とどうしても思ってしまう。私に出来ることは、他の誰かにも出来ること。だけどその中で"私"は選んでもらえるほどのモノを持っているのだろうか、と。私でなければならないモノ、はないとしても誰にでも出来るけど"あなたがいい"と選んでもらえる仕事がしたい。それは、他者承認によって自分の存在意義を確認するっていう…。自己肯定感の低さを露呈することに他ならないけれど。

私でなければならないモノはない、と自覚してるわりには、何がなんでもそこにしがみついていたい、と意固地にならないところだけは自分を褒めてもいいかなとも思う(笑)

 

トレーナーです!!と20年以上も声を大にして生きてきたけれど。今更、自分の市場価値に悩む日々。勢いだけで突っ走ってきた時代を経て大人になったってことでしょうか。

 

誰にでも出来ることだから私には需要がないかもしれない。誰にでも出来るけれど、その上での"私らしさ"や"私ならでは"ってあるのかな…とついつい、思ってしまうのです。

 

 

そんなこと考えてるから、自分の想いも承認欲求高めに映ってしまうんじゃないかとか、誰も見てくれないんじゃないか(←やっぱり他者評価は得たいw)とか、私なんてと若干卑屈になったり、、となかなか投稿できないのです。

 

 

ふと、思い出した。

何度か登場した小学校6年の時の担任の先生が卒業式の日にくれた手紙の中の言葉ー…。

 

"自分の評価を他人に求めないこと"

 

今になっていちばん深く突き刺さるなぁ…(笑)

変わってない、のか?私。なんて、今ものすごく衝撃を受けたけれど。

ちょっとくらい、委ねてもいいじゃないですか。揺るがない自分らしさを持ち続けるために。

 

チームが強くなったり、勝ち星を重ねたり。いい選手が輩出されたり。それはチームに関わるものとしてサイコーに嬉しく誇らしい。逆になかなか勝てなかったり、チームの雰囲気や士気が高まらなかったり低迷が続くと、大袈裟に言うなら自分の存在自体に絶望を感じはじめたりして(ワタシじゃない人だったら、ワタシが悪いのかもしれない、みたいな)。それは他者評価というよりもう自己肯定感の低さによるものだけど(笑)

 

チームというのは生き物なので。

うまくいくときもあれば、全然ダメで、そのダメな感じが永遠に続くかのような時期もある。

そんな時は本当につらくて、才能や実力があれば大丈夫とは限らないし、運やタイミングなど色んな要素が絡み合って、こうすれば絶対にうまくいく!というものはこの世の中、ないように思う。

 

ただ、そういう山あり谷ありの中で、ここまでなんとか続けて来られたんだから、少しくらい胸を張っても良いかなとは思うのだけれど。

 

財産。

 

根拠は、ない。いやないわけじゃない(笑)

ちゃんとそのための準備はしてきたつもりだ。

 

初戦は、奇しくも昨年のこの大会の、しかも初戦で思わぬ負けを喫した因縁の相手。ちょっとした不安はありつつも帯同出来ず前半だけYouTubeで観戦。なかなか苦しい、9点差を追いかける展開。ああっ、気になるから観るんじゃなかった!!とちょっと後悔(笑)勝利報告の連絡をもらって飛び上がるくらい嬉しかった。後々、ニュースで最後のトライシーン観て腰抜かしそうになった。15-12、土壇場で2年生が逆転トライを決めた大逆転勝利。なんつー試合!!(◎Д◎)

 

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まさに九死に一生!!

それもあって、準決勝は勝つ未来しか見えなかったわけです。

 

でも、

どんなに準備をしても想定外のことは起きる。

アタシがチームに合流した時はもうその"想定外"はとうに起きていた。でも、なんていうかそんなの関係なく(辛勝になるかもしれないが)勝つだろうな、と疑わなかった。アタシにしたら珍しい。想定外は想定外で覆して新たなヒーローが生まれて、雨降って地固まる、的な状態で決勝に乗り込んでいくだろう、と。

 

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前半は我慢比べ。

お互いあと一歩のところまでいきながら決まらない。悪くはない。ただ、先制トライは先に取りたい。お互いに重なる、小さなミスやペナルティ。

前半27分。

待望の先制トライを取ったのは相手だった。え、なんで、と思うくらい止められずあれやあれという間に抜けて中央に決められてしまった。

 

嫌な時間だなとは思ったものの、わずか5分も経たないうちに取り返した。CKは外れて5 - 7で前半を折り返した。

 

悪くない。

良くもないけど、悪くはなかった。

後半、先にトライを決めて追いつければやってくれるだろう。体格的にはやや劣るもののフィットネスでは負けていない。ここからが勝負だ、と。

 

ところが後半開始早々、これまた悔しい形でトライを決められてしまう。CKは外れて5 - 12。

まだ、焦るような時間じゃない。

ゴール下に集まる選手たちの目も、当然のことながら諦めた顔はしていなかった。

 

なかなか敵陣へ切り込めないものの、しぶとくしぶとくDFで食らいついて追加点を与えない。小さいミスが、攻撃の足を引っ張る。

 

そのまま、ノーサイド

5 - 12。花園への挑戦は幕を閉じた。

 

泣き崩れる選手に歩み寄り、整列を促す。

アタシはというと。

不思議と涙は出なかった。

精一杯、やった結果だもの。

決勝の景色を見せてあげたかった。あの舞台に立ったことがあるか否か。それだけでも変わる。その舞台に足を踏み入れる資格は十分にあった。

 

このチームに来て、5回目の花園予選。

最初の年は決勝の舞台に立ってめちゃくちゃいい試合だった、と賛辞を頂いた。

でもそれ以降は手が届かなくて、準決勝にすら進まない年もあった。

年々、厳しさを増して追い込んだ。

あれだけ頑張っても先輩たちは勝てなかった。

まだまだ厳しくいかないと、本気で追い込まないとあそこには行けないんだよ、と言い続けた。

人生で一度くらいは限界突破するくらい追い込んだってバチは当たらない。むしろ、その経験は必ずこの先の人生で自信になる。少なくともアタシはそう思ってる。だから毎回声を枯らして厳しい言葉を投げかけて追い込んで…本気で、選手と向き合ってきた。だからこそ一緒に決勝の舞台に立つ未来しか思い描いていなかった。そして、その先もこの選手たちなら連れて行ってくれるんじゃないかと本気で信じていた。

 

 

最後の挨拶を監督に促されたけど、正直…話したくなかった。だって、一言でも発したら涙腺が崩壊しそうだったから(笑)優勝して泣かせて!って散々言ってきたし、このチームに来てから負けて泣いたことは…(一度あったかもしれないけど)ない、はず。

 

嗚咽を抑えきれなくて涙を流す選手たちを前に、うまいこと言えず…、一言、口を開いたらもう、ダメだった(笑)格好つけてるわけじゃなく、泣かないでちゃんとお礼を言いたかった。3年間ありがとうって。そして、力になれなくてごめんって。監督にも、ありがとう、しっかり成果出てたよ、と言っていただいたけど…やっぱり勝ちに繋がらないのは素直に受け取れず、どんな顔をしていいか、どう返していいのかわからず…。自分の力不足も、間違いなく否めないのだ。

3年生と、決勝に行きたかった。

だから、『俺等の代もきついトレーニングよろしくお願いします。この気持ちは忘れません。』と2年生からメッセージをもらって、有難いなと思った。まだアタシを信じてくれていることに、共に戦いたいと思ってくれることが何より嬉しかった。また、一緒にあの舞台を目指すことを容認してもらえたようで。

 

悔しいって気持ちは、ナマモノだから。

アタシは絶対忘れない。

勝ちたかったけど、悔しさも味わえるのは選手たちのおかげ。本当に本当に、ありがとう。

 

このチームにアタシを呼んでくれた監督にも。

感謝しかありません。

監督のつくるチームは本当に毎年いい選手たちばかりで、元気があって頑張るいいチーム。本当に幸せでした。

 

今までの選手たちとも会いたいなーー!!

会いたくないって言われるかなーー!!笑笑

何と言われても、財産なのよ。

好きだと言われようが顔も見たくない!と言われようが(笑)出会ったチーム、選手、保護者、スタッフ…全て、今のアタシをつくってるもの。

トレーナー人生21年。数えきれない人たちと出会って感謝されたり罵倒されたり、いろいろ。

たくさん泣いてたくさん笑ってきた。

全て財産。あとどれくらい増やせるんだろう。

 

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監督の元、花園に挑んだ5回のシーズン。

いつもアタシを笑顔で迎え入れてくれた選手たちに感謝です。

 

 

 

 

 

more,。


誰だって、いい環境に身を置きたいと思うのが普通の感覚だと思う。(その"いい環境"は人によって違うのはさておき)より良いところを求めるのは普通の感覚だとは思う。

 

 

でもそのいい環境って、自然と出来あがることもあるかもしれないけど…大概は"誰か"が声を上げて時間をかけて作りあげたものだって忘れられがちでは?

more betterを求めるのは全く悪くない。

求めるベクトルを何処に向けるか、が重要なのかなと。外に外にばかり求めるのは虚しい気がする。かと言って0→1は大変なのもわかる。

帰属意識とかその場所や人に思い入れがあればmore betterのベクトルは必然的に現状を変える方へ向く。自分(だけ)が居心地のいいところのmore betterを求めるならベクトルは外へ向く。大して関心も思い入れもなければ可もなく不可もなく、の現状維持。

 


想いの温度差は大なり小なり、どこにいたって存在する。それは致し方ない。育って来た環境も違えば、大切にしたいものの優先順位だって同じ方を向いていたって異なる。AIやクローンじゃないから当然のこと。誰かを"変える"ことは難しい。ただ、情熱と本気は人の心を揺さぶることが出来るとワタシは思っている。

 

 

多少のバラつきはあれど同じ想いを持って、集まったチームなら、一度くらい情熱と本気をぶつけあえる集団であって欲しいと思う。それは、理想論でしかないのか。

 


自分は何も出来ないと思ったその瞬間は、ベクトルは自分にしか向かずスコープが狭くなっている証拠。

確かに、世の中代わりはいくらでもいるし、どうにかなる。わかってはいても虚しくなるときもある。だけど、そこにいるなら誰かのために、チームのために、ほんの些細なことでいい。

必ず、何か一つは出来ることがあるはずだ。

それもまた自分じゃなくてもいいことかもしれない。それでもその"誰にでも出来ること"をどんなときも率先して全力で出来る人はチームに対する帰属意識や仲間に対する想いが深い人だな、とワタシは思う。あくまで、ワタシの持論です(笑)

 

誰も自分のいる場所やいいなと思う場所をそんなふうに考える人なんていないのかな。自分にとっていいか、悪いかだけで考えられたらどんなに楽だろう…なんて思ったり。

 

自分の今いる場所だって、会ったこともない誰かが築き上げたものかもしれない。その人の想いを踏み躙るようなことはしたくない。今、そこにいる人間が次に繋げていかないといけない。悪きものは改善して、いいものはもっと良いものにして、次に繋げていかないと。

 

そんなん、考えちゃうんだな。